創価ダメ出しさんに学ぶ、2019年3月座談会御書の教学的ダメ出し

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創価教学じゃない御書講義(2019年3月座談会御書・聖人御難事)

各各師子王の心を取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり、(聖人御難事)

今月の座談会御書は「聖人御難事」ですね。

◆仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。 

大聖人の出世の本懐である弘安二年の大御本尊御建立を示された重要な御書です。今の創価はこの御文の「余は二十七年なり」を「大難」のことであって出世の本懐の事を言っていない。などという身延読みしているが上記の御文を素直に通釈すれば、「二十七年」の主眼は「大難」ではなく「出世の本懐」にかかることは明白なのだがね。まぁ今回の拝読箇所はここではないので「出世の本懐」についてはまた何度も書くことにしよう。

さて、今回拝読箇所も何度も創価内で取り上げられている一節だ。どうでもいいがたまにはいままで扱ってない御文とか取り上げればいいのにと思う。この御文の講義はどうせ「師弟不二」がどうしたとか「師匠と同じ師子王の心を」云々とか「師子王の心とは勇気です」「題目あげれば師子王の心がわいてくる」でもって「勇気の対話」(という名の公明党へ支援)を拡大してまいりましょうとかいう講義なんでしょ?もううんざりですね。創価のそういうデタラメ講義は。「師子王の心」とは仏界。「師子王の心」は自分の中から
取り出す。そこはいいんだけど、一番の間違いは「師子王」とは大作センセだと教える所。一応は「師子王」とは大聖人であると言うのだか講義ぼ最後になると「池田先生と師弟不二」云々とか言っちゃう。そうやって教えるから全部台無しになる。

さて、「洛陽伽藍記」という書に、
後魏の荘帝が国を治めていた時、波斯国より一匹の師子が献上され荘帝は「どう猛な虎でさえも師子を見ると必ず伏せて動かないというけれども、それを確かめてみようと思う」と言って早速豹と虎を師子の前に連れていく予想通り豹も虎も耳を垂れ尾を巻き目を閉じて師子を見れなかった。次に目の見えない熊を師子の前に連れていくと熊は師子の気配を感じ恐れおののいて穴倉姿を消した。と言う話がある。この話を日寛上人は引用し、

◇「宗祖大聖人は智仁勇の三徳を兼備されていて、智は舎利弗に越え、仁は薩埵に越え、勇は慧遠法師にも優れている。故に南都七大寺の碩徳や、日本一州の学者らは宗祖を恐れ怖じて目を開いて宗祖を見ることもできないでいる。ただ耳を垂れ、尾を巻いている。 そして名前を聞き、影を見て走り隠れる姿は彼の盲熊に似ている。それであるから面と向かって対決できない彼等は、御家尼御前に取り入って種々の讒言を構えたり、公場対決を避けて後ろから讒言するのである」

と言われている。このお振る舞いこそが師子王の姿なのである。国会の証人喚問からコソコソ逃げまわるような大作センセが師子王などとお門違いも甚だしい。弟子の姿をみても我が日興門流との法論からこれまたコソコソ逃げまわっている臆病者ばかりだ。本抄に書かれている「退転者の特徴」そのものである。大聖人様のお振る舞いとは全く正反対の創価の師弟。こんな連中が「師子」ならば「野干」なんてどこにいるんだ?どうみたって創価の師弟こそ野干の姿そのものだ。

今回に御文に日蓮が一門は師子の吼るなりと書かれているが師子吼とは、

◆御義口伝に云く師子吼とは仏の説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり(御義口伝巻上)

このように師弟ともに妙法を唱えることである。そして師とはその妙法を弟子に授ける人を「師」というのである。弟子に妙法を授けるのであれば師は「妙法」を所持している人でなければならない。その「妙法所持の人」とは御書に照らして日蓮大聖人以外にいないのである。大作センセごときが「妙法所持の人」であるという文証も理証もないのである。
さて、その「妙法所持の人」であるご本仏・日蓮大聖人の色心二法・人法一箇の法体こそ、この聖人御難事で御建立を宣言された弘安二年の戒壇大御本尊なのである。つまり、師子王と言うのは戒壇大御本尊を指して師子王というのである。
その師子王たる戒壇大御本尊を捨てた創価が「師子王の子」であるはずないだろう。

◆鹿をほうる犬は頭われず師子を吠る犬は腸くさる(兄弟抄)

師子の子どころか、腸の腐ったイヌというのが創価活動家の姿なのである。
このまま大御本尊とその子である日興門流を誹謗すれば頭破作七分は必定だ。

◆譬えば一の師子に百子あり彼の百子諸の禽獣に犯さるるに一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる、(千日尼御前御返事)

逆に師子王たる大御本尊を信受する者は全ての苦難(禽獣)に犯されようとも必ずそれらの息の根を止めることが出来るのである。
学会員さん。よく考えてくださいよ。日蓮大聖人様と池田大作先生。
どちらが師子王ならばどちらかは禽獣なのです。
大聖人様と大作センセ。一体どちらが師子王だと思うんですか?
良く学び良く思索し、大作センセか大御本尊(日蓮大聖人)か選んでみてくださいな。
この選択は貴方の信仰人生にとって大切な選択ですよ。
師子の子を選ぶのか?それとも頭破昨七分の禽獣の道を歩くのか?
貴方次第です。

毎度、勉強になる創価ダメ出しさんのブログですが、今月の座談会御書が「聖人御難事」ということで、私も一言破折を申し述べたいと思ったのです。

それには理由があります。

1986年(昭和61年)に総本山で開催された夏季講習会に、私は当時中学2年生で徳島県の中等部代表メンバーとして、初登山させていただきました。

その後、「参詣遥かに中絶せり。」の御金言の如く、38歳まで24年間もお山から足が遠のく羽目になるのですが、それについては今日は触れません。

初登山で参加した夏季講習会の課題御書が、「聖人御難事」だったのです。

参加が決定してから、買ってもらったばかりの御書全集で、何度も何度も拝読しました。

講習会では青年部や男子部の人の前で、声に出して順番に拝読し、意訳してくれる言葉に耳を傾けたものです。

創価ダメ出しさんも触れてはいますが、

◆仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。 

大聖人の出世の本懐である弘安二年の大御本尊御建立を示された重要な御書です。今の創価はこの御文の「余は二十七年なり」を「大難」のことであって出世の本懐の事を言っていない。などという身延読みしているが上記の御文を素直に通釈すれば、「二十七年」の主眼は「大難」ではなく「出世の本懐」にかかることは明白なのだがね。まぁ今回の拝読箇所はここではないので「出世の本懐」についてはまた何度も書くことにしよう。

と、今回はここの部分はツッコミを控えられています。

しかし、私は声を大にして言いたい。

当時、創価の人たちから教えられた、「聖人御難事」の肝はこの御文であり、「余は二十七年なり」が出世の本懐(戒壇の大御本尊建立)の事を言っているのですよと、赤線を引かされたということを。

まあ、あれから30年の歳月が流れましたからね。

創価流の解釈では、お坊さんにダマされていたことに気付いたとでもいうのでしょうか?

はぁ?

永遠の指導者が聞いて呆れますが。

で、3月座談会御書のメインが

各各師子王の心を取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり、(聖人御難事)

だそうで。

笑わそうとしているのでしょうか?

1991年以来、一度も創価学会員さんと、まともに仏法の話をしたことがございませんけども。

顕正時代も日蓮正宗に入ってからも。

みんな逃げていくんですけども。

嫌がらせはしますけどね。

ぜひ、3月は心機一転、折伏に来てくださいな。 

「各各師子王の心を取り出して」とあるんですから、師子王の心で私たちの迷妄とやらを晴らしてください。

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日寛上人御書文段

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平成新編日蓮大聖人御書

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六巻抄

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