信心の信とは

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信心の信とは
2005-11-21 | 手引書①
 宗祖日蓮大聖人は『日女御前御返事』に、
 「仏法の根本は信を以て源とす」(御書1388)
と仰せであります。仏法を学び行じ信心していくときは、疑うことなく信じることが大切です。人は生きていく上で無意識のうちに信じて生きています。特に正しい仏法は信じることが必要です。間違った悪道へ行く教えは、信じることなく疑いを持ち、悪を止めることです。
 仏法における「信」の意味は、信じることはいうまでもありません。「信」とは、「人」という字と「言」から出来ています。特に日蓮大聖人の仏法では、「人」においてはお互いを支え合う意味と、日蓮大聖人の仏法を信じる異体同心という意味があり、「言」においては自行化他の勤行唱題と折伏の時に出す声・言葉です。それが「信」の意味です。
 その意味を理解した上で、信心をすることが大事です。一人信心や言葉に出さない観念的な信心は、本当の信心とは言い難いところがあります。正しい「信」の字を理解して精進しましょう。
 『生死一大事血脈抄』に、
 「信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益なり」(御書515)
という御指南があります。信心していく上で、「血脈」である血脈相承を重んじて信じなければいけません。血脈とは、日蓮大聖人からの正しい仏法を受け継がれておられる、御法主上人猊下様から流れ通う教えを信じることであります。信心をしていても「血脈」を無視した信心は無益です。「血脈」を信じない場合、日蓮大聖人は『女人往生抄』に、
 「信心を堅固に発(お)こして疑ひを成すべからず。其の上、疑ひを成すならば『疑ひを生じて信ぜざる者は即ち当に悪道に堕(お)つべし』『若(も)し人信ぜずして乃至其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん』と、無虚妄の御舌をもて定めさせ給ひぬれば、疑ひをなして悪道におちては何の詮か有るべきと覚ゆ」(御書339)
と御教示であり、信じないで疑いを起こすと悪道に堕ち、更に死んでから地獄でも一番苦しい阿鼻地獄の無間地獄に堕ちますと仰せです。仏様の御金言は絶対に疑うことなく信じることです。信じるところに成仏があり、自分自身の幸せがあります。
 『御義口伝』に、
 「信の字は元品(がんぽん)の無明を切る所の利剣なり。其の故は、信は無疑曰信(むぎわっしん)とて疑惑を断破(だんぱ)する利剣なり」(御書1737)
と御教示であります。私達の迷い煩悩の根本である元品の無明も信じることによって、迷いを切り開くことが出来、また信は疑い無きを信という無疑曰信により、疑いや惑いを断破することができます。
 信心をする上で、何に「信」が大事であるかが解ります。信無くして仏法はなく、成仏も幸福もありません。『法蓮抄』に、
 「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企(くわだ)つるがごとし」(御書814)
と仰せであり、「信」の無い修行は無意味であり、宝物を得ることが出来ません。日蓮大聖人の正しい仏法は疑うことなく確信を持って信じましょう。そこに確固たる幸福を築き上げます。