人生の悩みに効く「実存哲学」を紹介します。

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

人類は生存率を上げるために言葉による<評判>を媒介とした協力関係システムを進化の過程で身に着けたのでした。ほかの動物も直接的見返りが期待できる場合は自分が損しても相手を助けることがごく稀にありますが、人間は二度と逢うことがなく見返りが期待できない相手でも親切にします。そうやって自分の評判を上げると、巡り巡って見返りが期待できるわけです。しかし、恩恵だけを受けて自分は人に何もしない者が増えるとシステムが壊れて生存率が下がりますから、ズルをする輩は罰しなければならないという<道徳感情>が生れました。<道徳感情>は、宗教や教育なんてもんが発生する遙か以前、何百万年も前に確立したものなのです。動物の中にもその萌芽は見ることができます。
悪を罰したいという<道徳感情>は、いいことばかりではありません。とくに人類の生存のために最も重要となる<間接互恵性>を成り立たせる平等が破られ格差が広がったときに<道徳感情>が刺激され、美しい理想に取憑かれてテロを起したり、美しい計画を掲げる扇動政治家が人気を博したりといった歴史上何度も繰り返された悲劇が起きました。
トランプが大統領になったり、欧州で右翼が台頭したりといった世界情勢も、ポピュリズムなんて見当外れの言葉で呼ぶよりも、<間接互恵性>から発している<道徳感情>から分析するほうが的確なのです。中東でISが暴れているのも、すべてこの<道徳感情>の為せるわざで、統一的に説明できます。
言葉によって<評判>が巡り巡ってくる<間接互恵性>は、ほとんどの行為が目の前で起きるわけではないので、誰が良きことをして報酬を与えないといけないのか、誰が悪しきことをして罰を与えないといけないのかを判断するため、人間は因果推察能力が発達しました。しかしそのために異様に因果にこだわるようになってしまい、もともと因果がない処まで無理やり因果を見つけようとします。だからこそ、逆に目の前のことさえ見えなくなってしまう。そんな性癖のために、右翼も左翼も判りやすい因果で構成された幾何学的で美しい計画に取憑かれて、国家を大混乱に陥らせたりするのです。
さらには、とにかく<評判>を得たいと思ったり、誰かを罰したいという欲求が人間の悲劇を生みます。一番まずいのは、<道徳感情>が強く刺激されると恐怖心を克服してしまうので、自分が死ぬことも恐れなくなるし、人々への共感も失ってサイコパス化してしまうことです。これらはすべて、ほかの生物には見られない、血縁とは関係ない巨大な群れを維持して生存率を上げるための人間関係システムが元凶となっているのです。
釈迦もこんなことを最初から判っていたわけではなく、出家と云っても師匠に付いたり修行仲間がいたりしたんですが、それでは駄目だと気がついて、完全に独りになってようやく悟りを開いたのでした。

私としては仏教のみならず、宗教というのはすべてここから始まっていると考えています。
目の前の現実が何故かそのまま視えないので、思索なり修行なりでなんとか真実を視たいという人は、昔からいたのです。プラトンイデア論のみならず、原初の宗教家や哲学者はみなさんだいたいおんなじようなことを述べております。しかも、ほとんどは一般社会から離れて出家しますし。
つい最近になって認知科学なんてのが発達して、認知バイアスなんて概念が生れる何千年も前から、認知バイアスに気づいている偉い人は何人もいたのです。
しかし、普通の人には、生活を捨てて思索や修行に専念するなんてことは難しくてなかなかできませんから、組織を大きくするためには神に祈るとか、誰でもできる簡単な儀式を取り入れる。そのうちに、認知バイアスを克服して真実が見えるようになりたいなんて最初の思想は忘れられて、神とかそちらのほうが中心になってしまったわけです。むしろ宗教が、因果のないところに因果をでっち上げる、認知バイアスを増幅するための装置と成り果ててしまう。
仏教も組織を大きくするために似たようなことをやりましたが、しかし神に祈るのではなく、釈迦という思想家に祈る形態にしたため、根本の思想がある程度は受け継がれることになったのでした。

さて、釈迦は因果とその根源である人間関係を断ち切ることにより悟りを開いたのに、人間関係そのものである教団を作るという相反した行動を取ることになります。人に悟りを教えるなんて矛盾だと思ったのか、お釈迦さんも最初は絶対やるつもりはなかったのに、説得されてやることになったのでした。
悟りを開いた偉い人がいると聞きつけて、ぜひ教えを請いたいと人々が集まってきて、あまりに熱心に懇願されたから、とうとう根負けしたという具合になるのが常識的な流れでしょう。
ところが、ブッダ伝説では、梵天の説得によって気持ちが変わり、まだブッダの偉大さに気づいてないため話を聴くつもりもない人々に、ブッダのほうから押し売りで教えを説いて弟子にしたということになっています。
梵天というのは、宇宙の原理ブラフマン神ブラフマーのことです。仏教では、教団を作るということそれ自体が、たんなる師弟愛なんてもんではなくて、なにやら宇宙の根本原理と結びついていると考えられているのです。
実際の組織形成過程がどうであったかはともかく、釈迦は教団を運営していくうちに、大勢の人々が集まる集会で物事を決めることが、組織の存亡に関わる最も大切なことであると気づくことになります。
これは初期仏典に明確に出てくることなので、間違いありません。つまり、民主主義が認知バイアスを克服することを発見したのです。
悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、お釈迦さんが個人として悟りを開いて認知バイアスを克服していたかどうかは怪しいところがあると私は思っています。
しかし、まさしくその悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、集団としての悟りを得る道を見出だしたわけです。
この個人としての<悟り>と集団としての<悟り>の両輪を軸にすると、ブッダが残した教えはすべて矛盾なく読み解けるのです。

輪廻なんかも<間接互恵性>から見るとすぐに理解できます。
良きことをした者には報酬を、悪しきことをした者には刑罰を与える<因果応報>で世の中はなりたっているはずなのに、実際には生れたばかりで何も悪いことをしていない赤ん坊が悲惨な死を遂げたり、極悪人が幸せな一生を送ったりする。これは、前世や来世を想定し、そこに原因や結果を求めないと帳尻が合わない。なんの帳尻かと云えば、進化によって骨の髄に刻み込まれた<道徳感情>による因果の持って行き場ですね。
輪廻はインド独特の思想だと云う人もいるみたいですが、天国や地獄、あるいは怨霊なんてものが昔から世界中にあるんですから、同じことです。
とくに怨霊は、無念な死を迎えた者に、祟りの伝説という形で<間接互恵性>の罪と罰のバランスの歪みを死後にでも正常化しようとするだけではありません。<間接互恵性>を成り立たせるため人間に備わった因果推察の性質により、なにか凶事が起れば必ず原因があると考え、祟りだと本気で思い込むという、因果の逆流でもあります。輪廻における前世と同じベクトルなのです。この因果を推定できないはずのところに因果を求めてしまう人間の性質が、認識を歪める認知バイアスの源流なのです。
輪廻から脱して解脱するというのは、要するに<間接互恵性>を断ち切るということです。そうすれば、<間接互恵性>を元凶とする認知バイアスから逃れて真実が見えるようになる。
なんか、仏教というのは、縁起だとか業だとかが根本思想だと考える人がいるみたいですが、それがあるのは前提で、縁起だとか業だとかを断ち切らないと仏教にはならないはずです。輪廻を断ち切って涅槃に入るのが、仏教の究極の目標なんですから。
元々、人間の原理に即して、宗教が発生する遙か前から人間精神を支配している縁起だとか業だとかを理解するのは簡単ですが、理解している人がみんな悟りを開いて涅槃に入ったのかというと、そんなことはないとすぐに判るはずです。
ただ、ブッダと同時代にいた六師外道のように、輪廻などの既成の思想を単純に否定するのとは違います。輪廻などは<間接互恵性>によって人の心に深く刻まれた実在する現象であることを前提として、それを乗り越える方策を説いています。進化によって形成された人間本性から見るとブッダのほうが正しく、六師外道とは一見似ているようで根本的に違うのです。認知バイアスは非常に強力で、錯覚ですよなんて云ったくらいのことではとても退散できないんですから。
その人間の本性には実在する縁起や業を断ち切って、輪廻や<間接互恵性>から脱するなんて人間の原理に反することをやろうとするからこそ、悟りは生身の人間にとって絶望的に難しいのです。
<因果応報>というのは、宗教が生れる何百万年も前から生存のために骨の髄に刻み込まれた人間の根本原理で、仏教というのはそこからの脱することを目的としているのです。
輪廻する主体は何かという難しい議論をする人がいますが、輪廻する主体は進化によってもたらされた<間接互恵性>であることがここから簡単に判ります。まさしく、<間接互恵性>こそ、<縁起する無我>そのものです。

人類の悲惨は道徳感情にありました。

それは私に会通しますと、現実に対して強制的に因果関係を求めてしまう性向であったのです。

ですから、いわゆる西洋哲学の代表と呼ばれるような、プラトン、カント、ヘーゲルの観念論は、人類の進歩・幸福・発展に寄与するどころか、逆説的に冤罪の犯人探しを助長し、結果、虐殺、世界大戦をも引き起こしてしまったのです。

人間関係に悩むというような、私たちにも身近な問題が、人類の存亡をかけるような大問題に繋がっていることを、アダムスミスは「道徳感情論」で喝破していたのです。 

道徳感情論 (講談社学術文庫)

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しかし、彼の功績はむしろ枝葉末節の議論であるはずの、金儲けにかんする考察の方にウェイトが置かれ、資本主義の父とまで誤解されて今日に至っております。

大風呂敷を広げたような哲学に、アンチを唱えた最初の人はキルケゴールでした。 

死に至る病 (岩波文庫)

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彼は抽象的な「人間」や、純粋な「精神」などではなく、実際に生きている人間、ひいては「自分」を哲学の議題に提示しました。

また、ニーチェは、道徳や宗教の本質を看破し、その虚妄を暴いたのです。 

道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)

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善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

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そして、ついにハイデガーは与太話を語ることをやめ、人間という言葉を使用することさえも忌避し、現存在(死に至ることを自覚した己)という、実存の哲学を模索したのです。本来は存在の意味への問いが主題でしたが、人間学的考察に注力し断筆しております。 

また、ハイデガー人間学的実存哲学を受け継いだサルトルが、実存主義人間学を第二次大戦後に完成させました。 

存在と無 全3巻セット

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そして、振り返ってみると、実存の哲学者はアダムスミスの言う「システムの人」と成りえず、体系的な社会論を構築することなく世を去っています。

是々非々で保守的に生きていくことの大切さを暗喩的に示しているのではないでしょうか?

ドストエフスキーの4部作を読めばそのことが実感できます。 

登場人物たちは滅茶苦茶おしゃべりです。

プラトンの言う衆愚政治の見本のような、民主主義の世界。みんな好き勝手に議論したり、感情をぶちまけます。

罪と罰」は人を殺すことが、なぜいけないことであるかについての哲学小説です。

数年前に哲学的な議論として、人を殺すことの是非の根拠を問うことが巷間の話題となりました。簡潔明瞭な理由を提示できた人はいませんでした。しかし、ドストエフスキーの「罪と罰」という小説を読めば、「実感」できるのです。

それは、〇〇だからという理屈で納得するのではありません。

サイコパス的な秀才型の主人公(ラスコーリニコフ)が、自分の考案したもっともらしい殺人正当化の理論を、実践する前後に味わう当人の心の葛藤を、読者も一緒に体感させられてしまうからです。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

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罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

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悪霊では悪のデパート的な、人間の悪行が開陳せられます。たまりません。全く救いがないのですから。

悪霊(上) (新潮文庫)

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悪霊(下) (新潮文庫)

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白痴(バカ)呼ばわりされる主人公の心の美しさ、それと対照的な周囲の人物の醜悪さ。最後に訪れる悲劇。善人すらも「悪」の餌食にされる、人間世界のおぞましさ。 

白痴(上) (新潮文庫)

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白痴(下) (新潮文庫)

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未完に終わったカラマーゾフ。なぜ、未完に終わったか?

それは、ドストエフスキーの 構想では、続きの話でアリョーシャが犯すはずであった、皇帝暗殺の大罪が、ドストエフスキーの住んでいたアパートの隣室に、実際にニコライ二世を暗殺したテロリスト集団によって実行されたことを知ったから。

まさに、自分の頭の中にあった空想が、現実化した(予言が的中した)興奮で持病の癲癇発作が起こり、そのままドストエフスキーが死んでしまったから。

まさにドストエフスキー実存主義の権化なのです。

人が生きるということはどういうことなのか?

ぜひ、考え続けて生きましょう。

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

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カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

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カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

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ドストエフスキーも実存哲学の人でした。