創価ダメ出しさんに学ぶ:御書の読み方の秘訣&主師親三徳について

令和元年、明けましておめでとうございます。

皆さまは10連休中、いかがお過ごしでしたでしょうか?

私は、1日だけお休みでした。

でも、短縮勤務でしたので時間的には、かなりゆとりのある日々を過ごすことが出来ましたよ。おかげで、読書もモリモリ進みました。読書感想は、後日、アップしてまいりたいと思います。

さて、表題の件ですが、勝手に私淑している創価ダメ出しさんが、とても勉強になる記事をアップされていましたので、ご紹介しながら感想&会通をさせていただきましょう。

sokadamedasi.blog27.fc2.com

まずは、2019-05-05の記事。(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ 御書の話②から。

もっと具体的に言うと、御書には色々な事が書いてあるけど
それらは全て「戒壇大御本尊」の説明だということにふと気づいたわけです。
それが分かってからはそれまでとは比べ物にならないくらい御書が分かるようになりました。
よくよく考えればそんなこと当たり前ですよね。

御書を読む秘訣とは、ズバリ、 「戒壇大御本尊」の説明として読んでいくというもの。

なるほど!

全てが大御本尊の説明なんだ。という立場で御書を読むことを「依義判文」といいます。
義(大御本尊)に依って文(御書)を判断する(読む)というこです。
前回の記事で「御書には読み方がある」と書いたのがこの「依義判文」です。

 「依義判文」といえば、日寛上人様の六巻抄に依義判文抄がありますね。その序文には、

明者めいしゃは其の理を貴び闇者あんじゃは其の文を守る。いやしくも糟糠そうこうを執し橋を問う、なんの益かある。しかも亦える有り、文証無きはことごとく是れじゃなりと、たとい等覚の大士法を説くと雖も経を手にらずんば之を用ゆべからざるなり。故に開山上人の口決くけつ(上行所伝三大秘法口決)にならって謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証じょうしょうし以て後世の弟子に贈る。此れは是れひとえ広宣流布の為なり、必ず其の近きを以て之をゆるがせにすべからず云云。

との、有名な御文がございます。

先日、対話をメールで行った、創価学会員さんの論法を思い出しました。彼の場合は、「依義判文」ではなく「依文判義」だったのです。だから、都合よく「切り文」を接合して邪難を加えてきますが、さっぱり整合性のない根無し草の論だったのです。

私は、あえてこちらからは質問を投げかけませんでした。受け身と捌きのみに徹しましたが、結局は音信不通になっております。 

nichirendaihonin.hatenablog.com

上記の私からの返信が最終回答になっておりますが、この回答作成においても、創価ダメ出しさんのブログを参考にさせていただきました。改めて謝意を表したいと思います。

今の創価相伝を排除し、歴代上人様、就中、日寛上人様の御指南を敵視&蔑視しております。それは、とりもなおさず、日寛上人様が臨終をもって証拠とされた、数々のお書き物が「不都合な真実」であることを、上層部や教学部は熟知しているからです。

創価の活動家はよく戒壇大御本尊の事が御書に書いていない。っていうでしょ?
アレは「依義判文」が出来ない創価読みだから御書には大御本尊の事が書かれていないって思うわけ。
それを言ったら「法華経」の経文に三大秘法っていう名目なんて書いてないわけですよ。
じゃ大聖人は法華経に書いていない事を勝手に主張したのか?って話ですよ。
しかし、大聖人は撰時抄の中で、

◆仏滅後に迦葉阿難馬鳴竜樹無著天親乃至天台伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり

と言って法華経の経文に「三大秘法」が書いてある。(経文の面に現前なり)と言われている。
このことを釈して日寛上人は、「依義判文」で読めば分かると依義判文抄で

◇文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し

と言われているわけです。では「文底の義」となにかということに続けて

◇勘文無きに非ず、若し之れを聞かんと欲せば先ず須く三大秘法の開合の相を了すべし。若し之れを了せずんば経文を引くと雖も恐らくは解し易からざらんことを云云。

◇実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり

「依義判文」の義を知りたければ三大秘法の開合を理解しなさい。三大秘法とは一大秘法であると言われています。
逆に三大秘法の開合を理解しなければ経文(法華経)を示しても多分分かりませんよ。と言われています。
創価民たちが御書を読んでも大御本尊の事が書いていない。分からないのはこのような理由です。
さてこの一大秘法について日寛上人は観心本尊文段の中で、

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり

とご指南されています。この三大秘法開合の相を否定し、「文底の義」である大御本尊を捨てた創価民には、いくら御書を読んでもそりゃ本尊義なんて全く理解できるわけがない。(そのくせ何故が御書に書いていない大聖人がご本仏であるという事は読めるらしいのだが)
御書は大御本尊を説明したモノなのに、大御本尊を捨てた創価には御書は無用の長物なんですよ。
そもそも御書は大聖人の門下に与えられものであり、大聖人(大御本尊)を捨てた創価民に与えられた書ではないのですから。

まさに、今回の創価学会青年に教えてあげたい言葉ですね。

次に、 2019-05-02の記事。(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ 創価教学じゃない御書講義(2019年5月度座談会御書・種種御振舞御書)から。

「主師親三徳具備の人」を仏とする理由は今回は置いておくけど

とありましたので、主師親三徳の依文と意義について補足をば。

nichirendaihonin.hatenablog.com

を読んでいただけば、尾林御尊能化の名文が勉強できます。引用いたしますと、

更に今度は『法華経』の本門にまいりまして、本門における三徳の関係は、どこに示しておられるかと申しますと、これは大聖人様御自身が『御義口伝』の中に、次のようにお示しであります。

 「本門の仏の主の徳は我此土安穏の文なり」(全七五七)

 今朝ほどの勤行の「自我偈」にございました「我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり」(開結五〇八)と、この御文の上に、釈尊は主徳を示しておられるのである。又、 「師の徳は常説法教化の文なり」(全七五七)

ということを言われております。「常に法を説いて、無数億の衆生を教化して、仏道に入らしむ」(開結五〇六)と、この一文の上に、師の徳。常住不変に一切の人々を教化していくというところに、師の徳を示しておられます。 又、

 「親の徳は此の我亦為世父文是なり」(全七五八)

つまり「我も亦為(こ)れ世の父、諸の苦患を救う者なり」(開結五〇九)と、この文のところに、親の徳を示されておられます。

 このように「自我偈」の文の上に、釈尊は本門の仏として、主師親の三徳を示しておられるということを、大聖人様が『御義口伝』に説いておられるのであります。

 それならば、末法において、末法救済の御本仏として、大聖人様は、どこに、この主師親の三徳をお示しになったかと申しますと、皆様方ご存知のように、『開目抄』を中心にして、大聖人様が、

 「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(全二三七)

ということを説かれておりますし、『産湯相承事』という御相伝の文書の中にも、

 「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり。(中略)三世常恒に日蓮は今此三界の主なり」(全八七九)

ということを示しておられます

よくわかりますよね。

 日蓮によりて日本国の有無はあるべし(種種御振舞御書)

創価は、「日蓮によりて」という箇所を「創価学会によりて」「自分によりて」「公明党によりて」と読み替えると分かりやすいなどと、ベース教徒独自の解釈をしているとか。だから、創価ダメ出しさんは、読み替えた主体のどこに主師親三徳が具わっておるのかと破折しておられるのですよ。天晴れ。

創価学会仏。。。そんな仏がいつのまにか出現して。。。オカルトですな。

平成に続き、令和の時代も現代の一凶に亡国の危機が続くわけであります。

ベース教徒の諸君!推尊入卑 ( さいそんにゅうひ ) の邪義謗法を捨てて、日蓮正宗に帰依し、戒壇の大御本尊様(大聖人様)に参詣いたしましょう。

※ベース教徒…日蓮大聖人様の教えをベースにした、自己流宗教を信じる人々のこと

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ジェダイの騎士もダークサイドに堕ちると・・・こんな感じになりました

 

 

六巻抄

六巻抄

 

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 

 

御本尊様に向かって正座をし合掌をするのは

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 私達は、信心する上で御本尊様に「正座」をし「合掌」をすることが基本です。素朴な疑問ですが、信心に縁の薄い方には生まれる疑問ではないでしょうか。正座をし合掌するという姿勢は、気持ちを落ち着かせ冷静になる一番の方法です。「禅定」を得る近道であり、御本尊様から智慧を頂きやすい姿勢が「正座」と「合掌」になります。この姿勢を持ち体を動かさずに、不動を持つところ、御題目を朗々と唱えれば「歓喜」が呼び起こされ、人生の迷いや悩みを払拭させることが出来ます。更に道が開かれることになるわけです。
 日蓮大聖人は「合掌」について『御義口伝』に、
 「合掌とは法華経の異名なり。向仏とは法華経に値(あ)ひ奉るを云ふなり。合掌は色法(しきほう)なり、向仏は心法なり。色心二法妙法と開悟するを歓喜踊躍(かんぎゆやく)と説くなり。合掌に於て又二の意之有り。合とは妙なり、掌とは法なり」(御書1734)
と御指南であります。両手を合わせる「合掌」には、「歓喜」という喜びを呼ぶ働きがあります。「正座」について『守護国家論』に、
 「散心(さんしん)に法華を誦(じゅ)し禅三昧に入らず。坐立行一心(ざりゅうぎょういっしん)に法華の文字を念ぜよ」已上。此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり。散心とは定心(じょうしん)に対する語なり。誦法華とは八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目・一心一念随喜(ずいき)の者五十展転(てんでん)等なり。坐立行とは四威儀を嫌はざるなり。一心とは定の一心にも非ず、理の一心にも非ず、散心の中の一心なり。念法華の文字とは此の経は諸経の文字に似ず、一字を誦(じゅ)すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり」(御書138)
と妙楽大師の弘決を引用され、正座をすることで乱れた心(散心)をおさえる働きがあることを御教示であります。
 つまり「正座」と「合掌」をすることで、悪道の因縁を断つことが出来ます。御本尊様に正座と合掌する習慣を毎日持つことで、生活が快適になるわけです。更に自分自身の心の中が明らかに見えるようになります。長所や短所など、客観的に見たときの自分自身が、気持ちを落ち着けたとき見えてきます。見えたら成仏に向かって、自分自身の人格を直しながら、自分の理想的な人格を日蓮大聖人の御指南にそった形で作り替えていきます。気持ちを落ち着かせ心を柔和に持ち、正座をし合掌して唱題することで実現します。常日頃の振る舞いも自然と変わってきます。正座と合掌するところにその全てが具わっております。 
 御本尊様に向かって「正座」をし「合掌」するときは、御念珠をすることを心がけましょう。御念珠は、修行で積んだ功徳を貯金する大切な金庫です。御念珠の房にある壷に功徳が貯まります。御念珠をかけることで、私達の心の迷い煩悩が間違った方向へ行かないよう食い止め、更にその煩悩を活用して人生を優雅にしてくれます。そのため御念珠をすることが大切です。
 お寺へ参詣の際は必ず御念珠を持参し、更に御経本も袱紗(ふくさ)に包み持参しましょう。御念珠は「常自随身(じょうじずいしん)」という常に肌身離さず持つことが望ましいとされています。 

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病を克服する信心を

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 「病は気から」という諺もありますように、気の持ちようによって、気の緩みから、病気は起こります。信心は、病にならないよう事前に心の準備を調えるものであり、また、すでに病になっていても、病から立ち直って御本尊様を信じ境界を高めることが信心です。信心によって人間に本来具わっている自然治癒力を高めます。それが仏様の生命を御本尊様から功徳として頂くことになります。
 お医者さんも見放してしまう病を、信心によって自ら治し、克服した例はいくつもあります。信心で自然治癒力を向上させ、免疫力や抵抗力を高めます。自然治癒力などを高めるには、病気に悩むことなく悲観的にならず、病気のことを忘れ、未来に希望を持ち、更に「歓喜」という喜びが大切です。前向きになり喜ぶことで、私達の脳内から様々な病を治療する物質を放出します。それが自然治癒力であり、仏様の生命の一分です。御本尊様を信じ御題目を唱えるところに、その力が生命に涌現されます。「歓喜」という歓びを感じるところに仏界は涌現されます。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
 「所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801)
と仰せであり、『御講聞書』に、
 「題目を唱へ奉る者は心大歓喜せり」(御書1844)
とも仰せであります。御題目の南無妙法蓮華経を御本尊様に唱えるところ、心に大歓喜が呼び起こされます。唱題中は、楽しいことを心にイメージし、人生に生き甲斐を見出していくことが大切です。人生に目標や目的、生き甲斐を持つところに大歓喜を呼ぶ要素があります。大歓喜を呼ぶ基礎をつくる修行が勤行唱題です。
 日蓮大聖人は『太田入道殿御返事』に、
 「法華経に云はく「少病少悩」云云。止観の第八に云はく「若し毘耶(びや)に偃臥(えんが)し疾(やまい)に託して教を興す、乃至如来は滅に寄せて常を談じ、病に因って力を説く」云云。又云はく「病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病(や)む、二には飲食(おんじき)節せざる故に病む、三には坐禅調(ととの)はざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起こるが故に病む」云云。大涅槃経に「世に三人の其の病治し難き有り。一には大乗を謗ず、二には五逆罪、三には一闡提(いっせんだい)。是くの如き三病は世の中の極重なり」云云」(御書910)
と仰せであり、御本尊様を持ち御題目を唱えれば、病は少なく悩みも少なくなることを御指南です。更に病が起こる因縁も天台の摩訶止観を引用され仰せです。
 『妙心尼御前御返事』に、
 「病によりて道心はおこり候か」(御書900)
と仰せであり、病気になって信心に目覚める場合があります。持病や病気に悩んでいる人は、御本尊様から大歓喜を頂き、病気を治す絶好の機会であります。道心という信心の気持ちを起こすところに病は必ず治ります。信心を持ち、病気が絶対に治るという確信を持つことで、仏様の命が私達の心に躍動します。毎日の勤行唱題には自然と病を治す力が秘められています。それが信心です。

 

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「令和」最初の一般参賀に思う。

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本日行われた皇居での一般参賀に14万人が集まったそうな。

現時点では、皇統断絶の危機を迎えつつある皇室。

主徳を喪失して、はや幾星霜。

大聖人様の御書を拝すれば、天皇が主徳を喪失したのは承久の乱である。

然れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり、是を以て国家を祈らんに天下将に泰平なるべしや、諸法は現量に如かず承久の兵乱の時・関東には其の用意もなし国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰せて十五壇の秘法を行はる、其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行わる七日に満ぜし日・京方負け畢んぬ亡国の現証に非ずや、是は僅に今生の小事なり権教・邪法に依つて悪道に堕ちん事浅猨かるべし。(真言見聞)

今現証あるべし日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行ひ候へば日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとおもひ候なん、但し承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候しが調伏せられ給し権の大夫殿はかたせ給い、後鳥羽院隠岐の国へ御子の天子は佐渡の嶋嶋へ調伏しやりまいらせ候いぬ、結句は野干のなきの身にをうなるやうに還著於本人の経文にすこしもたがはず叡山の三千人かまくらにせめられて一同にしたがいはてぬ(撰時抄)

去る承久の合戦に隠岐法皇の御前にして京の二位殿なんどと申せし何もしらぬ女房等の集りて王を勧め奉り戦を起して義時に責められ・あはて給いしが如し、今今御覧ぜよ法華経誹謗の科と云ひ日蓮をいやしみし罰と申し経と仏と僧との三宝誹謗の大科によつて現生には此の国に修羅道を移し後生には無間地獄へ行き給うべし、此れ又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と此れ等の人人を結構せさせ給う国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼て勘へ告げ示すを用いずして還つて怨をなす大科、先例を思へば呉王・夫差の伍子胥が諫を用いずして越王・勾践にほろぼされ、殷の紂王が比干が言をあなづりて周の武王に責められしが如し。(光日上人御返事)

又承久の合戦の御時は天台の座主・慈円仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催して・日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う、所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる、天台の座主は一字金輪法等・五月二日は仁和寺の御室・如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う、又六月八日御室・守護経法を行い給う、已上四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり、権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ御調伏も行い給はず、又いかに行い給うとも彼の法法・彼の人人にはすぐべからず、仏法の御力と申し王法の威力と申し・彼は国主なり・三界の諸王守護し給う、此れは日本国の民なり・わづかに小鬼ぞまほりけん代代の所従・重重の家人なり、譬へば王威を用いて民をせめば鷹の雉をとり・貓のねずみを食い・蛇のかへるをのみ・師子王の兎を殺すにてこそ有るべけれ、なにしにか・かろがろしく天神・地祇には申すべき、仏・菩薩をばをどろかし奉るべき、師子王が兎をとらむには精進すべきか、たかがきじを食んにはいのり有るべしや、いかにいのらずとも大王の身として民を失わんには大水の小火をけし・大風の小雲を巻くにてこそ有るべけれ、其の上大火に枯木を加うるがごとく・大河に大雨を下すがごとく・王法の力に大法を行い合せて頼朝と義時との本命と元神とをば梵王と帝釈等に抜き取らせ給う、譬へば古酒に酔る者のごとし・蛇の蝦の魂を奪うがごとし・頼朝と義時との御魂・御名・御姓をば・かきつけて諸尊・諸神等の御足の下にふませまいせていのりしかばいかにもこらうべしともみへざりしに・いかにとして一年・一月も延びずして・わづか二日一日にはほろび給いけるやらむ、仏法を流布の国主とならむ人人は能く能く御案ありて後生をも定め御いのりも有るべきか。(神国王御書) 

ja.wikipedia.org

承久の乱は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に起きた。末法御本仏、日蓮大聖人様の御生誕前年である。

ということは、2年後が800年目ということ。

この国の王法は800年も、武士や民衆に収奪されたままであるということになる。

歴史の符合とは不思議なもので、乱の翌年に主師親の三徳兼備の仏がこの国にお生まれになっているので、皇室が失った主徳は日蓮大聖人様から血脈を通じて、歴代猊下様の御許に具わっていらっしゃることになる。

天皇陛下様が、日蓮正宗の信徒となられれば、皇室に再び日本国の大王としての徳が具わるのではないか・・・

それこそが本来の日本の国の姿ではないか・・・

そんな風に想像してみた日でありました。

神国王御書

 夫れ以れば日本国を亦水穂の国と云い亦野馬台又秋津島又扶桑等云云、六十六ケ国・二つの島・已上六十八ケ国・東西三千余里・南北は不定なり、此の国に五畿・七道あり・五畿と申すは山城・大和・河内・和泉・摂津等なり、七道と申すは東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七箇国・山陰道八ケ国・山陽道八ケ国・南海道六ケ国・西海道十一ケ国・亦鎮西と云い又太宰府と云云、已上此れは国なり、国主をたづぬれば神世十二代は天神七代地神五代なり、天神七代の第一は国常立尊乃至・第七は伊奘諾尊男なり、伊奘册尊妻なり、地神五代の第一は天照太神・伊勢太神宮日の神是なりいざなぎいざなみの御女なり、乃至第五は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊・此の神は第四のひこほの御子なり・母は竜の女なり、已上地神五代・已上十二代は神世なり、人王は大体百代なるべきか・其の第一の王は神武天皇此れはひこなぎさの御子なり、乃至第十四は仲哀天皇八 幡御父なり・第十五は神功皇后八 幡御母なり・第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子今の八幡大菩薩なり、乃至第二十九代は宣化天皇なり、此の時までは月支漢土には仏法ありしかども日本国にはいまだわたらず。

日本 
神代十二代・・・天神・七代 
      ・・地神・五代 
人代百王 
第一神武天皇    之を略す 
第十四仲哀     八幡大神の父なり 
第十五神功皇后   八幡大菩薩の母なり 
第十六応神天皇   今の八幡大菩薩なり 略 
第三十欽明天皇   歴記に云く、欽明天皇の治天下十三年己申歳冬十月一日、百済聖明王より仏像経等始めて日本国に送る。
第三十一敏達天皇 ・・厩戸王子・〈四天王寺を造る〉 
第三十二用明・・・・・聖徳太子は用明の御子也 
            ・・〈上宮太子守屋を切り四十九院を立つ。南岳大師の後身なり。救世観音の垂迹なり〉。
第三十三崇峻 
第三十四推胡    女帝 
第三十五舒明 
第三十六皇極    女帝 
第三十七孝徳 
第三十八斉明    女帝 
第三十九天智 
第四十 天武 
第四十一持統 
第四十二文武 
第四十三元明 
第四十四元正 
       ・・倶舎宗 
       ・・律宗 
       ・・成実宗 
   ・・六宗・・法相宗 
   ・   ・・三論宗 
   ・   ・・華厳宗 
第四十五聖武    亦禅宗有り並に一切経有り 
   ・・・・聖武天皇東大寺の大仏を造る 
   ・・・欽明より聖武に至るまで二百四十余年なり。震旦国より鑑真和尚渡り律宗を亘す。次に天台宗の玄・文・止等を渡す。又東大寺の小乗戒壇を立つ。
第四十六孝謙   聖武の女 
第四十七淡路   廃帝 
第四十八称徳   孝謙又即位也 
第四十九光仁   桓武の父なり 
     ・・〈欽明より二百六十余年に及ぶ〉 
第五十 桓武・・・延暦三年に奈良の都より長岡の京に遷り。延暦十三年、長岡の京より平の京に遷る。延暦二十五年、御崩去。
      延暦四年、叡山を立つ〈伝教大師最澄なり〉。延暦二十年、叡山八講を始め南京の十人を請ず。
      延暦二十一年の正月十九日、高雄に於て南京の十四人と最澄と宗論あり。同二十九日、六宗の十四人謝表を桓武聖王に奉る。
      延暦二十三年、入宋。同二十四年、御帰朝。此の御時始めて伝教大師天台宗を立て、四十余年の文を以て六宗を破り、始めて法華の実義之を顕し、欽明より二百余年の邪義之を改む。
      又六宗の碩徳たる勤操・徳円・長耀等の十四人桓武皇帝に謝表を奉て邪見を翻す。
      弘法大師空海〉は延暦二十三年、御入宋。大同元年、御帰朝。伝教大師山階寺の行表僧正の御弟子。弘法大師は石淵の勤操僧正の御弟子なり。
第五十一平城 
第五十二嵯峨   弘仁十三年六月四日、伝教大師御入滅。同十一日〈慈覚大師〉戒壇を立つ。
第五十三淳和 
衆 
秀句に云く「法華経を賛すと雖も還て法華の心を死す」文。
撰択集に云く〈法然造〉「捨閉閣抛」。
善導礼讃に云く「十即十生百即百生」。又云く「百の時に希に一二を得千の時に希に三五を得」。又云く「千中無一」。
道綽の安楽集に云く〈大集月蔵経を引く〉「我が末法の時の中の億億の衆生行を起し道に臨むも未だ一人の得る者有らず。当今末法は是五濁の悪世なり。唯浄土の一門のみ有て通入すべきの路なり」。
恵心の往生要集に云く「利智精進の人は未だ難しと為さず。予が如き頑魯の者豈敢てせんや」。
     ・・根本大師 
伝教大師・・・山家 
     ・・天台の後身なり 
守護章に「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り。法華一乗の機今正に是れ其の時なり」。
又云く「一乗の家には都て用ひざれ〈小乗権大乗四十年なり〉。但し開し已て助道に用ひたるを除く」。

 (和漢王代記)

日本国の歴史と不可分だった皇室。

王法の存亡の危機を乗り越えるためには、天皇陛下の御帰依の時を待つしかないのかもしれません。私は主権在民という考えは、自界叛逆の難の現証であると受け止めています。

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天皇陛下は象徴なのか国主なのか

 

 

九思一言を心がけましょう

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 日蓮大聖人は『崇峻天皇御書』に、
 「孔子と申せし賢人は九思一言とて、こヽのたび(九度)おもひて一度(ひとたび)申す」(御書1174)
と外道である儒教孔子でさえも、九回も思い止まって慎重に言葉を選んで話しなさいと言っているのであるから、尚更、仏法を信ずるものは言葉を選んで話していきなさいという御指南です。
 人間は、「一言」で人生を棒に振ることもあり、何気なく発した言葉には相手の受け止め方により千差万別です。相手を十分に知って慎重に話していくところに「我此土安穏」があります。日々の勤行唱題は、「九思一言」を心がける信心が大切です。『十字御書』に、
 「わざわいは口より出でて身をやぶる」(御書1551)
と御指南であります。災(わざわ)いは、口から出て私達の身を破っていくと仰せです。「口は禍(わざわい)の門 舌は禍の根」という諺もありますように、六根の舌根によって身を滅ぼすことがあります。
 信心は、「六根清浄」を得る功徳があります。口からわざわいが出そうな時は、御本尊様の御前で唱題することを心がけましょう。そこにまた煩悩即菩提の意義があり、掛け替えのない成仏の因を積むことが出来ます。同じ口から出す言葉でも、話す言葉の内容によって人生を大きく左右するものです。勤行唱題根本に、言葉を選んで生活していくことが「九思一言」です。
 私達の迷いの根源である貪瞋癡の三毒が強盛になりますと、九思一言を忘れる傾向があります。三毒の貪瞋癡を感じたときに、一歩踏み止まり御題目を心で三唱して冷静になり言葉を選んで振る舞うか、三毒の感情にまかせて思ったことを率直に言葉に出すかで未来が変わります。出来れば良い方向に変えたいと思うのが常でしょう。しかし、言わなければ気が済まないと言う人も居られるでしょう。言葉の内容にもよりますが、日蓮大聖人の教えにそった姿で話すことが大事です。我見や我慢偏執からくる言葉には後味が悪いものです。
 「九思一言」は、貪瞋癡の三毒を正しい方向へ扱う時に大切なことです。貪る気持ちや瞋る命、愚癡を変毒為薬させる作用が「九思一言」にはあります。三毒が、私達の表情に出るときは、意識せず無意識のうちがほとんどです。ここに十分注意し、九思一言を実行することが大事です。九思一言は外道で説く教えですが、日蓮大聖人は『法門申さるべき様の事』に、
 「外道の法と申すは本(もと)内道より出でて候」(御書431)
と御指南のように、外道の教えは内道である仏教から出ているということです。長い歴史の中で、様々な形で仏教は伝わってきております。更に低い教えも法華経という最高の経典に会入されることで、本来の意味が活かされます。難しくなりますが、相待妙と絶待妙という法門によって低い教えも本当の意味を持ちます。
 私達は毎日の生活において、御本尊様を信じるところ勤行唱題を根本に「九思一言」を心がけていくことが大切です。その心がけが人間関係を円滑にし、成仏の境界、常寂光土へと着実に向かいます。

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