冥の照覧を恐れる信心を

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天網恢恢疎にして漏らさず

 「冥の照覧」とは、諸仏・菩薩や諸天善神が衆生の一切の一念・言動を悉く存知していることです。「冥」は暗くて、凡夫の眼に見えないことを意味しますが、深遠で奥深い力用をあらわします。「照覧」は明らかに見ることです。つまり、御本尊様が常に、私達を見守って下さるという、非常に有り難いことであります。その反面、決して悪いことが出来ない、悪いことをして人は見ていなくても、御本尊様が常に見ておられるという誡めが「冥の照覧」です。この冥の照覧を恐れる信心が大切です。
 『持妙法華問答抄』に、
 「豈(あに)冥(みょう)の照覧(しょうらん)恥づかしからざらんや。地獄の苦しみ恐るべし恐るべし。慎むべし慎むべし」(御書298)
と御指南であり、「冥の照覧」を恐れないと地獄の苦しみを経験すると仰せです。
 『同生同名御書』に、
 「人の身には同生同名と申す二(ふたり)のつか(使)ひを、天生まるゝ時よりつけさせ給ひて、影の身にしたがふがごとく須臾(しゅゆ)もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、遥々(はるばる)天にのぼて申し候と仏説き給ふ」(御書596)
と仰せであり、同生同名天(どうしょうどうみょうてん)が両肩に生まれた時からいて、冥の照覧を司っていることを御指南です。命終において同生同名天が閻魔大王に全てを報告し、未来に生まれるところを決定付けます。
 親御さんは法統相続において、同生同名天の話をお子さんに聞かせて、教化育成することが大事です。同生同名天というのは、生まれたときも同じで名前も同じであるために「同生同名天」といいいます。同生天は女神で右肩にいて悪業を記録し、同名天は男神で左肩にいて善業を記録しているとされます。
 具体的に「冥の照覧」を恐れる信心とは、信心を忘れる時を恐れなさいということです。この信心を忘れる時を恐れなければいけません。信心を忘れるときは、世俗の思想に紛動され易いときです。この時に罪をつくり、謗法をおかす危険性があります。そして「後悔先に立たず」という諺を痛感させられます。
 その時を御本尊様は決して見逃しません。同生同名天がしっかり記録し、命に深く刻まれます。謗法与同罪を恐れる信心に通じるものが「冥の照覧」であります。
 冥の照覧を恐れる信心とは、十四誹謗をおかさないということでもあります。また勤行唱題を怠らないことです。怠慢な姿は、人が見ていなくても御本尊様がお見通しであります。
 この冥の照覧を恐れる気持ちが、出来ている人は確実に成仏に向かいます。冥の照覧を恐れる信心は、己心の魔や師子身中の虫を抑える作用があり、様々な煩悩である迷いや悩みを最小限に止める働きがあります。常に細心の注意力を怠らないことになり、大事に至らないよう未然に防ぐことが出来ます。それが「冥の照覧」を恐れる信心であり、御本尊様を常に意識することであります。
 故に戒定慧の三学という戒において「防非止悪」の意味を持ちます。「冥の照覧」を恐れる信心を志しましょう。

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