身・口・意の三業

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身・口・意の三業
2005-11-21 | 手引書②
 私達は、身口意の三業にわたって信心をすることはなかなか難しいことです。日蓮大聖人は『女人成仏抄』に、
 「然るに一切衆生、法性真如の都を迷ひ出でて妄想顛倒(てんどう)の里に入りしより已来、身口意(しんくい)の三業(さんごう)になすところ、善根は少なく悪業は多し」(御書344)
と仰せであります。信心は身口意の三業にわたって行うことが理想ですが、過去遠々劫の謗法の垢が厚いため困難であります。
 身口意の三業とは、身である体と、口である声を出す口と、意である心の三つを三業といいます。日蓮大聖人の教えは、この三業にわたり信心するところに、成仏の境界を築くことが出来ます。身である体だけ信心している姿を見せても、口と意である心が信心と違うことをし考えていてはいけません。また口から出す言葉が信心にかなっていても、身と意が異なっていればこれもいけません。更に意である心の中で、この信心は正しいと知っていても、身と口が違う行動をとっていればこれもいけません。
 日蓮正宗の信心は、身口意の三業にわたってはじめて信心と呼べるのであり、身口意の三業が調わないことは信心と呼びません。日蓮正宗に入信している人で、功徳がなかなか頂けないと悩んでいる人は、この身口意の三業がバラバラで調っていない場合があります。今一度、勤行唱題の中で自問自答する必要があります。
 功徳が頂けない背景には、我欲が先行し日蓮大聖人の御精神から逸脱したときです。大聖人の教えのもとに我欲を調節し、身口意の三業を調えることが大事です。
 日蓮大聖人は『教行証御書』に、
 「公場にして理運の法門申し候へばとて、雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猿(あさまし)き事なるべし。弥(いよいよ)身口意を調へ謹んで主人に向かふべし、主人に向かふべし」(御書1110)
と御指南であります。これは折伏における心構えを仰せになられた御言葉です。折伏行には、身口意の三業を調えて、身口意の三業が乱れたままで折伏をしないことです。身口意の三業が乱れたままでは、日蓮大聖人の法を下げることになり、折伏は成就しません。身口意の三業を調えて折伏に望むことは基本であり鉄則です。
 『総在一念抄』に、
 「問うて云はく、一文不通(いちもんふつう)の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口(く)業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むね(胸)の中に収めて必ず出離(しゅつり)の人と成るなり。」(御書115)
と仰せであります。知識や学問が全くなく一文不通でも、信をもち御題目を口に唱えることで、口業の功徳を得て成仏することを御教示です。
 過去遠々劫の謗法に迷わされないよう、身口意の三業にわたる信心に徹していきましょう。