【等門流に於いては御抄を心肝に染め極理を師伝して】 極理は師伝される
【等門流に於いては御抄を心肝に染め極理を師伝して】
極理は師伝される
【相伝の仏法】
仏法は仏知見(仏の覚り)を衆生に、開き・示し・悟らしめ・入らしめんとする教法です。
もともと仏教にあっては相伝・相承が重んじられ、釈尊は迦葉(かしょう)に天台大師は章安(しょうあん)に、伝教大師は義真(ぎしん)に法を付されました。
そしてその意義を日淳上人は、
「仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱(わくらん)されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転(てんでん)相承を厳(げん)にして、それを確実に証明し給ふのである」(淳師全集 1324頁)
と示されています。
とりわけ本宗にあっては「宗祖大聖人の教えを寸分も違うことなく」との日興上人の御精神がそのまま反映され、「唯授一人血脈相承(ゆいじゅいちにんけちみゃくそうじょう)」を厳護する意味からも、相伝仏法・相伝の宗旨との宗風が確立したと拝されます。
【相伝無き魔族】
この相伝の仏法を、創価学会・顕正会・正信会も、かつては遵守し、信心修行していたのです。
しかし、魔族と化し、破仏法の団体に成り下がったため、破門されるに到りました。
彼等も、御書を読むことは知っています。
しかし、正当な血脈相伝によらず、我見によって都合よく御書を用いて解釈しているに過ぎません。
第二祖日興上人は、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(御書1884頁)
と、唯授一人血脈相伝の「極理」に基づいて御書を拝するよう誡められています。
第六十五世日淳上人は、
「古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らずこれを忽(ゆる)がせにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救ふべからざるに至る誠に嘆ずべきである」(日淳上人全集 45頁)
と仰せられ、『極理の師伝』なくして、御書を学ぶことは我見に堕ち、無間地獄の業因であることを御指南されています。
かつて池田大作も、
「日蓮大聖人の御書を拝するにあたっては、あくまでも御法主日顕上人猊下の御説法を中心として、よくよく拝していかなければならない」(広布と人生を語る 1―118頁)
と述べていたのです。
御書に寸分違わず実践していると豪語する彼等ですが、では【極理】とは何か?
どうやって【師伝】するのか?
と聞かれて答えられる者は一人もいません。ですから、ニセモノの法門と本尊を持ち出すのです。
【魔族が仏法を破る】
シェークスピアの「ヴェニスの商人」の中に、
『悪魔でも聖書を引くことが出来る、身勝手な目的にな』というセリフがあります。
日淳上人の「魔族が仏法を破る」というお言葉に置き換えれば、『悪族でも御書を引くことが出来る、身勝手な目的にな』となります。
ここで、池田大作の破仏法ぶりがよく顕れている指導(「法華経の智慧―二十一世紀の宗教を語る」聖教新聞社)を以下に挙げてみたいと思います。
●寿量品の「久遠の仏」とは一切衆生のことなのです。私どものことです。凡夫は凡夫のままで仏なのです。
●命に差別はない。平等です。平等に仏です。違うのは、それを自覚しているか否か、その「心」の違いだけです。
●宇宙そのものが本来、仏なのです。太陽が出るのも慈悲。月が照らすのも慈悲。緑の木々が美しく呼吸しているのも慈悲です。宇宙全体が無始無終にわたって慈悲の活動を続ける大生命体なのです。
その大生命を久遠の仏という。そして、十界の誰の生命も、この寿量品の仏と一体なのです。その本来の生命に帰るカギが信心です。
●大聖人は「寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり」(御書 p799)と明快に言われている。…全宇宙が自分の銀行口座のようなものだ(笑い)。「信心」次第で、いくらでも宝が引き出せるのです。
どうですか皆さん。教学が浅く、かつ池田大作に心酔している人なら信じてしまうでしょう。一見まともなことを言っているようで、全くの邪義を述べています。
どこがおかしいのか、かいつまんでお話しします。
まず、『凡夫は凡夫のままで仏』とは大衆受けする言い方です。しかし、大聖人様は「無作三身」を説かれましたが、凡夫の命に「理」としての「仏性」はあっても、それが、イコール「仏」ではありません。この辺りの捉え方が浅いくせに不遜だと言えます。
また、彼の説明ですと「私は仏だ」と自覚できたら、もれなく誰しもが仏になれることになります。
これは彼の「我見」であって、大聖人の教義ではありません。これはむしろ外道の思想です。
『御義口伝』に、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
と仰せのように、本尊(漫荼羅)とは大聖人御自身であり、大聖人を離れて妙法はありません。
しかし彼は、妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいるようです。このような考えについて、日淳上人は次のように破折されています。
「南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして、宇宙に遍満(へんまん)する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身(大聖人)であります(中略)妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。実際には仏(大聖人)の御智慧のうちにのみ、厳然として具はり玉ふのであります。その仏は、十方法界に唯一人在(まし)ますだけであります」 (淳全 982頁)
私達は宇宙から功徳を頂くわけではありません。だったら、御本尊様を拝まないで宇宙に遍満する法とやらを空を仰いで拝んでいればいいのです。
そもそも彼が引用した御文の、
「この寿量品」とは、大聖人御内証の寿量品であり、すなわち【三大秘法の大御本尊様】を指します。大御本尊様こそ、十界の一切衆生の本命なりと仰せなのです。この寿量品を本門というのは「御本尊に入る門」という意味なのです。
また、「本命」とは、【久遠元初の生命】であり、それが南無妙法蓮華経であり御本仏大聖人の魂魄たる御本尊なのです。
よくも『全宇宙が自分の銀行口座のようなものだ(笑い)。「信心」次第で、いくらでも宝が引き出せるのです。』などと言えるものだと呆れてしまいます。
大御本尊こそが妙法であり、大御本尊を受持の対象にしないで、どうやって妙法を受持しようというのでしょうか?
そして、彼は何の脈略もなく、続けてこう言います。
『そして「信心」とは「魔と戦う」こと以外にはない。正義とは、悪と戦うことであり、仏法とは難と戦うことです』
彼が言う「魔」とは「日蓮正宗」であり、日蓮正宗を「打倒」し「撲滅」することが「正義」であり「信心」であると洗脳したのです。
【カトリックとプロテスタント】
かつて、日達上人が創価学会の「池田本仏論」などの誤りを破折され始めたことに対し、反発した北條・八尋ら首脳陣が対策を相談し、池田宛に報告した文章が流出したことがありました。
当時の聖教新聞(昭和54年12月1日号)でも、この文章は本物であると認めました。その中に
『長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて…但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。』(北條浩副会長 昭和49年6月18日)
有名な内容で、私も何度も今まで目にしてきましたが、彼が表現する『本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。』というのは何なのか、私自身何となくしか分かっていなかったので、今回、少々調べてみました。
そこで分かったことは《聖書の解釈権》に絞って見た場合、カトリック教会においては「教皇(ローマ法王)」にのみあります。
従って、教皇の解釈と他の人の解釈が違う場合、他の人が間違いと言う事になります。
教皇の解釈こそがカトリック(普遍)なのです。
そして、プロテスタントというのは、カトリック教会における教皇の解釈を絶対とすることへ、プロテスト(異議申し立て)して成立しました。ですから、信徒一人ひとりが聖書をどう解釈してもいいとされています。そうなると、解釈が違う人どうしが争い、力で相手を従わせようとします。プロテスタントが盛んな国が相手を押さえ込もうとする背景には、こういう思想も反映されているようです。
また、創価学会は破門当初、自らを「平成の宗教改革」とか、「ルター」になぞらえていたことからも、宗門や猊下様を「悪しき権力者」という位置付けで見ていたのでしょう。
そして大事なことは、創価学会員は「創価学会は健気に日蓮正宗を護ってきた」と信じこまされていますが、実際には、正本堂建立の喜びに沸く一般の学会員を尻目に、「宗門はカトリックで学会はプロテスタント。いずれ決着を付ける。」との「破和合僧」の思想の元、日蓮正宗に圧力をかけ続け、時の御法主上人猊下を悩まし続けていたのです。
【退転者に本尊や法門の認定権はない】
退転者達は「血脈相承」を、いとも簡単に否定します。しかし、「血脈相承」とは日蓮大聖人の色心常住(大聖人の御心と御当体が永遠に常住され、未来永劫にわたって一切衆生を利益していく)の秘術であって、それは取りも直さず、日蓮大聖人の仏法の全部を意味します。
この秘術を創価学会員は、「魔法」とか「オカルト」と馬鹿にするのですが、今現在でも、もれなく創価学会員は大石寺の御法主上人がしたためられた御本尊様を拝んでいます。なぜ拝むかというと、その御本尊様が【日蓮が魂】であると信じているからです。
御本尊は信じても、血脈相承は信じないという姿は、既に破綻しています。
そして、面白いことに創価大学の宮田教授は、ホームページで以下の主旨を述べています。
●創価学会に本尊認定権があることを教学的に正当化はできない。
●しかし、分離独立して別教団になったのだから、日蓮正宗とは無関係に、本尊認定権を所有するのは当然である。
●日蓮正宗の信徒団体であった時代に認めていた日蓮正宗の本尊認定権をそのまま継承するのか、否定するのか、という問題は、創価学会の教団自治権に属する問題であり、一会員に過ぎない私が口をはさむべき問題ではない。
●創価学会が、日寛教学を含む日蓮正宗教学から離れて、自立した教団として、日蓮教学を独自に究明しようとすることは、日蓮を継承する教団としては当然のこと
宮田氏は創価学会の教学部アドバイザーという肩書きもあるようですが、「もう別教団になったんだから、創価学会発足から破門までの50年に渡って会員に教えてきた教学や本尊観が変わって当然。」としたいようです。
しかし、日蓮大聖人の仏法において、教義および化儀の裁定は宗祖以来の血脈を継承される御法主上人の権能に限られることはいうまでもありません。
よって、彼の主張を通すには、学会が今現在も製造販売している「日蓮正宗二十六世日寛上人の御本尊」を即刻破棄すべきです。
さらに、学会本部に安置してある「慈折広布の御本尊」とは、「日蓮正宗六十四世日昇上人」が「戒壇の大御本尊の御内証を、帯し奉って不肖日昇六十四世の法主として、御本尊様に信仰をそめておしたため申しあげている御本尊でございまする」(『聖教新聞』昭和30年12月18日付)
と仰せの御本尊です。
大御本尊を否定しながら、世界中の学会員を呼び集めて拝ませている整合性が付きません。即刻、大石寺に返納申しあげるべきです。
【今こそ、日如上人の御指南に添い奉るべし】
今まで縷々述べてきて、結局何が言いたいかと申しますと、大聖人様の仏法は相伝の仏法ですから、自分勝手な振る舞いや理解では功徳も無く、成仏も出来ません。
正法を破る者は、最終的に和合僧団にいられなくなってしまいます。
誰しもが、自らの心得違いによって魔族になり得る可能性はあるのです。我々は創価学会をはじめとする退転者集団を、反面教師として己を戒めていかねばなりません。そして、彼等を見捨てることなく、どこまでも粘り強く折伏して救っていくのです。
日蓮正宗の七百年の間には、戦国時代や封建時代、幕末の動乱期、明治の西洋思想の氾濫、大正・昭和の激動期等のいかなる時代にあっても、戒壇の大御本尊様への絶対なる信心と代々の御法主上人猊下の御指南でやってきたものでありました。
これからも、たとえどのように社会や政治形態が変わろうとも未来永遠にわたって、戒壇の大御本尊様への絶対なる信心と、代々の御法主上人猊下の御指南を中心としてゆくのです。それが日蓮大聖人様の教えなのです。それが日蓮正宗の信心なのです。それ以外に正しい信心はないのです。
今、日如上人は「信心とは折伏なり」と仰せです。 私達が、今の宗門の方針を、もっともらしく批判したり、やらない理由を探して愚痴を言うことが、いかに無駄であり勿体ないことか、今一度肝に銘じなければなりません。
折伏は慈悲の修行であり、苦労も多いですが、こんなにありがたく嬉しいものはありません。実践した人は体感できますが、功徳の泉なのです。
私は皆さんに、せっかく正しい法を信じているのですから、日如上人の仰せのままに実践して、信心の醍醐味を味わってほしいと切に願っております。 みなさん、大いに折伏に励みましょう。
総本山第六十七世日顕上人猊下御教示 すべては唱題から―唱題の功徳と意義六十一カ条
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