【父母となり其の子となるも必ず宿習なり】 子ばかのススメ
【父母となり其の子となるも必ず宿習なり】
子ばかのススメ
【親を捨てろと説く学者】
先日、同期生である本山の本種坊さんより、衝撃的なタイトルの本の存在を教えていただきました。
『もう親を捨てるしかない』(幻冬舎新書)というタイトルで、著者は宗教学者の島田裕巳(ひろみ)氏です。
島田氏は創価学会関連の本も何冊か出しており、公正中立な立場で執筆している姿には好感を持っていただけに、少々落胆してしまいした。
また、少し調べると、島田氏は葬式や墓さえ要らないという考えの方だと分かりました。
超高齢化社会を迎える日本において、政府は方針として、在宅介護・医療を推奨(すいしょう)しています。
しかし、介護する側の金銭、体力、時間そして、精神的負担は大きく、介護休職、介護退職せざるを得ない状況に陥(おちい)ることが多いのが現状です。
その結果、世の中は、介護疲れによる殺人、無理心中が後を絶たず、統計的に見ても親族間の殺人は、確かに増加しているそうです。
著者の島田氏は、「このような閉塞(へいそく)した状況を打破するには、子どもは、自分の仕事や生活を犠牲にするような介護をする必要性はなく、親は捨て去ること」と主張するのです。
さらに「家族、家というものも崩壊している現在、管理費のかかる墓を維持する必要があるのか?」と言います。
私は、随分寂しい事をいう人だなという率直な感想を持ちました。余りにもおかしな宗教、宗派を見過ぎて、信仰心が失われ、善心が破られたのではないのだろうかとさえ思いました。
お墓の維持管理といっても、年間数千円の話であり、ここをケチって何になるのでしょうか?
大聖人様は「たまたま人間に生まれて来ても、名聞名利の風が激しく、仏道修行の灯は消えやすいものである。無益の事には財宝を尽くしても惜しくも思わないのに、仏法僧の三宝や親に少しの供養をするにつけ、これを惜しみ物憂(ものう)く思う事、これはただ事ではない。地獄の使いと競う者である。善行は少なく魔の働きは大きいと言うのはこれである。」(新池御書1457頁 趣意)
と、こういう心根(こころね)の方を嘆いておられます。
しかし、この本には肝心の「親捨て」の方法は書かれていません。そして、実際問題として認知症や肢体(したい)不自由の親を家から放り出したら保護責任者遺棄罪(ほごせきにんしゃいきざい)となってしまいます。
世の中に、赤ちゃんポストはあっても、老人ポストは存在しません。
現実問題として、目の前に介護を必要としている親がいる限り、現実逃避は出来ないのです。
世の中には、親がどういう状況であろうと我関せずの方もいますが、内心、後ろめたさを抱いている方も多いと思います。
なぜなら「親孝行」「親の恩」とは人として生きる以上当たり前のことですし、それらを全く感じないことなど人として不可能だからです。
どんな人にも十界の命があり、餓鬼界や修羅界もあれば、菩薩界や仏界の境界も具わっているのです。
『もう親を捨てるしかない』は、実際に親の世話も介護も経済的援助もせずに、今まで葛藤し後ろめたさを感じながら生きている方には、格好の言い訳本となるでしょう。
【親ばかで無ければ、子育ては出来ない】
俗に、「親ばか」という言葉があります。周囲から使われる際はあまりいい意味では使われません。 典型的な例が、ドラえもんに出てくるスネ夫のお母さんです。「うちのスネちゃまは、一番いい子で一番カッコいいざます」と思っています。そして高額な小遣いや、おもちゃ、食べ物を当たり前に与えます。見ていて気持ちのいいものではありませんが、まだ「ばか親」ではありません。スネ夫が間違ったときには、ちゃんと注意もします。
「ばか親」とは子供が公共の場で騒ごうが悪さをしようが他人のフリをし、子供が注意されるとクレームを付けたり、給食費などの当たり前の料金を屁理屈を付けて払わないような、身勝手で他人に迷惑をかける親を指すと思われます。
スネ夫のお母さんのように「自分の子供を実際以上によく思う」ことは、極端ではありますが親として普通ですし、逆にこれが無ければ子育てなど出来ません。
我が子を客観的にしか見ない親なら、「うちの子には、どんな可愛い服を着せても無駄。」とか「うちの子には何の能力も無いから、習い事をさせるだけ無駄。」となるのでしょうし、エスカレートすると育児放棄にもつながるのでしょう。
世の中の殆どの親が、損得なしに精一杯の愛情をかけるから、何も出来ない新生児も無事に育ち、やがては一人前の人となれるのだと思います。
【子ばかになろう】
小さい子供にとって、親は絶対的な存在です。しかし、子供も成長してくると強制的なしつけ受け容(い )れなくなりますし、親を客観視するようにもなります。
すると子供は「親といっても、時には迷い、失敗もする普通の人間であり、聖人君子ではないのだ。」と理解できるようになります。
ここで、幼い時期のしつけや、学童生徒の時期の教育がきちんとなされていれば、成人する過程で、親をいたわる心も自然と育まれてくると思います。
果たして、世の中に「子ばか」なる言葉が存在するのか知りませんが、親に対して特別な愛情があり、「うちの親はここが素晴らしい」などと親を尊敬したり、見習ったり、自慢に思ったりする子供という、良い意味で使いたいと思います。
どうか皆さんには、大いに「子ばか」になっていただきたいと思います。残念ながら、すでに親御さんが他界されている方も同じです。
過去・現在・未来という三世の生命から見た場合、皆さんの思いは既に亡くなった方へも御本尊様を介して通じ、親子の縁が切れているわけでもありません。ですから、子や孫へは堂々と自分の両親の徳を讃え、精一杯御本尊様へ亡き親の追善供養をし、報恩申しあげるのです。
自分の親のことを子供や孫に語りたがらない方もいらっしゃるかと思いますが、親が祖父母を尊敬している姿を見て、子供は親を敬い、お年寄りを大事にすることを学び、自分の家系に誇りを持つのではないでしょうか。
【親の恩を忘れない】
日蓮大聖人様は、子供を産んで育てる大変さを我々に教えて下さっています。
皆さんも、『刑部左衛門尉(きょうぶさえもんのじょう)女房御返事』(御書1503頁)を拝読されるとよく分かりますが、親の恩が事細かに述べられております。
特に母親の徳でありますが、母親が我が子を胎内に宿した時からいろんな苦痛に耐え、また、お産の際の非常な苦しみを忍んで、生まれ出れば直ぐに抱きかかえ、愛情を込めて乳を飲ませるのです。また、両親が三年間は子供を膝の上でよく遊ばせて育てるのであります。
大聖人様は、母親が赤子に飲ませる乳の量までも詳しく示されて、その乳の値が一合でさえ三千大世界に値するほど貴重なものであると説かれております。
そして、その母の苦労に対して子は孝養の心が無い者が多く、父母への死後を弔う者も、年がたつにつれて少なくなり、母の十三回忌ともなれば、その法要をする者が殆んどないと、大聖人様は嘆かれるのです。
大聖人様は常に孝行ということが一番大切であるということを仰せでした。親孝行ができない人は、どんなに世間的に地位や名誉があろうと、畜生にも劣るとまで仰せです。
この『刑部左衛門尉女房御返事』の最後に、
「父母に孝養しようとする意志のある人々は父母に法華経(南無妙法蓮華経)を贈るべきである。教主釈尊も、父母の孝養のために法華経を贈られている。(中略)必ずや、亡くなられたあなたの母親の霊も、たちまちに六道の苦しみと穢(けが)れを離れて霊山浄土へ参られるであろう。
この法華経の法門を善知識にあって度々聞かれるべきである。日本国に知る人の実に少ない法門なのである。詳しくは、またおりをみて申しあげよう。」(趣意)
皆さんは、日蓮正宗の化儀に則り、御先祖を本門のお題目によって毎日の勤行で回向されているわけであります。これこそが、最高、最善の孝養なのです。
今現在の皆さんの家庭の発展、幸せの基は、過去の先祖の方々が懸命に子供を育ててきたことにあり、決して親の恩を忘れてはならないと思います。
島田氏は昔ほど親に恩は受けてないと言いますが、現在でも大半の親は、自分たちの生活を切り詰めても、子どもの育成、教育に愛情、お金、時間を注ぎ込んでいます。
島田氏は将来その「恩」を返してもらおうなどと期待するな、というような事も書いてありましたが、読んでいて寂しくなってしまいました。
島田氏の主張するように、親、家、墓、故郷、等をすべて捨て去ると言うことは、自分を捨てることと同義だと私は思います。
【厳然とある仏力法力】
大昔から、役に立たない老人は捨てるという姥(うば)捨ての思想は存在しましたが、島田氏がなぜこういう思想になったのかを突き詰めると、宗教学者としてさまざまな宗教に縁をしていく過程で、かえって宗教では救われないという思いに到ったのではないかと思います。
また、御自分の生まれ育った環境が、多少影響しているのかも知れません。
しかし、我々日蓮正宗の僧俗が信仰する御本仏大聖人様の魂魄である本門戒壇の大御本尊様と、究極の真理には、個々の命を清浄にし、娑婆世界を仏国土に変えるだけの、厳然たる仏力法力が具わっているのです。
日蓮正宗で説く、本物の仏法僧の三宝に対する信仰心を失わない子どもならば、深い因縁に結ばれた親子、家族の間柄を忘れて簡単に親や年寄りを見捨てる事など起こり得ません。
「父母となり其の子となるも必ず宿習なり」 (寂日房御書 1393頁)
との因縁により、他人にはない深いつながりがあることを、認識して初めて家族の助け合う心が生まれるのです。親の介護や葬式を出して、損をしたとか、勿体なかったという感情は湧いてくる余地がありません。
ある政治家がジョークのつもりなのか「90歳で老後心配、いつまで生きてるつもりだ」と発言しましたが、それが人間です。死ぬまで心配事は尽きません。
現実問題として、この信仰をしていても、認知症や要介護の状態になる人もおります。誰でも老いて病気になるわけですから当然です。
認知症や介護にも人によって程度の違いがありますが、少なくとも介護疲れで殺人とか無理心中という選択をするまで子供が追い詰められることは無いと言えます。
不思議な御仏智や功徳によって、行政の助けを受けられたり、本人の症状が快復したり、手助けをしてくれる人が現れたりといったこともありますし、周囲を煩(わずら)わせる前に寿命が尽きるということもあります。
盂蘭盆経に出てくる目連尊者の母、青提女(しょうだいにょ)は、仏への供養や親への孝養を惜しんだ「慳貪(けんどん)の罪」によって、長い間、餓鬼道に堕ちて苦しんだ様が説かれています。仏は人々を脅すためにこのような話を説いたのでは無く、真理、実相として説かれるのです。
中には、親に虐待されたり、他の兄弟と差別されて育つなど、トラウマがあってどうしても親を受け容れられない方もいらっしゃるかも知れません。
それでも、親の存在無くして自分は存在しませんし、大事に育てられた時期があるからこそ、今も生きているのです。
朝晩、しっかりと御祈念していくならば、必ず自分の親を受け容れられるようになります。またそれが、大きな仏様の功徳なのです。
どうやって親を捨てるかを考えるより、どうやったら親が安心して「お前を生んで幸せだったよ」と、ニッコリしながら最期を迎えられるかを考える方が、人として価値があるように思います。
自分が穏やかな最期を迎えたいと思うなら、親にもそうなれるように勤めるのが道理であり、すべては因果応報なのです。
私は声を大にして申しあげます。みなさん大いに「子ばか」になろうではありませか。