【たとい根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり、修利槃特等是なり】 敬虔なる信心
【たとい根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり、修利槃特等是なり】
敬虔なる信心
【利己主義が蔓延する世界】
アメリカ大統領にトランプ氏が就任してからというもの、世界中が落ち着かなくなり始めたと感じていたところへ、金正男(キム・ジョンナム)氏がマレーシアのクアラルンプール空港で暗殺されるという、痛ましい事件が起きました。同じ地球上に住む我々も、対岸の火事と思わずに注意が必要です。
毎日のように悲惨な災害や事故、陰惨(いんさん)な事件が報道されていますが、私たちの生活において、こうした様々な苦しみや不安は消えることがありません。
さて、人の一生には、ある意味で幸・不幸とか、運・不運ということが起こります。そして人は、その時々において喜んだり悲しんだり、嘆いたり、更には、他の人からうらやましがられたり、妬まれたり、誹謗されたりと、様々な事態が起きてきます。
世の中、何が幸いとなり、何が災いとなるかは、私たちに予測する事などできません。こうした幸・不幸とか運・不運というのは、その時、その時の一時的な一つの姿が現れたものでありますから、そういうものに執われてしまってはいけません。
また反対に自暴自棄となって、自分の一生を滅ぼすようなことになってもいけないのです。
大切なことは、一時の感情や結果だけで幸・不幸を判断するのではなく、一生を通じて本当に幸せであったかどうかが重要なのです。
私たちは、人生の中で様々な苦難に遭いますが、ここで大切なことは、こうした苦難をどう捉え、どう乗り越えるかという、心の在り方を知ることであり、言い換えれば諸難の原因を知り、どのように対処するかにあります。
そもそも、この「苦難」とはどういうことなのでしょうか?「苦しい」とはどういうことなのでしょう。何がどうなったら苦しいと感じるのでしょうか?
前にもお話ししたことがありますが、もともと、「苦」という言葉は、インドの言葉ではDUHKHA(ドゥッカ)と言い、中国でそのDUHKHAは「苦」という漢字に翻訳されました。もともとの意味は、「思い通りにならない」という事です。つまり、「苦しみ」というのは、「自分の思い通りにならない」という事なのです。
【業について】
一般に、物事が思うようにはかどらず、いらいらする時に「業を煮(に )やす」といいます。このほかにも、
「業火(ごうか)」「業病(ごうびょう)」など、「業」のつく日常語がたくさんありますが、それらは必ずしも「業」の本来の意味を正しく伝えていないようです。
私たちは、仏法を実践する上で「業」の考え方を正しく理解することが大切です。
「業」とは、梵語(ぼんご)でカルマといい、「行為」を意味しています。さらにその人の行いとその影響力を含(ふく)めて「業」という場合があります。
たとえば、他人を傷つけた場合、その行為はすぐに消えますが、傷つけた行為にともなう後悔(こうかい)や悪感情(あくかんじょう)などが後に残ります。そして、それによって後に必ず苦しみを感じます。
このように、業とは行為のことですが、その行為は後にも影響を残すものなのです。
【業の種類】
この業には様々な種類があります。
(1)身口意(しんくい)の三業
業は、行為のあり方からいえば、
①身業…身体にかかわる行為
②口業…言語にかかわる行為
③意業…意志にかかわる行為
という三業に分けられます。その身口意にわたる三つの行為の中に、人間のすべての業が含まれています。
仏道では「三業相応(そうおう)」といって、身口意の三業が離背(りはい)することなく互(たが)いに一致させることが大切であると教えています。
(2)共業(きょうごう)と不共業
共業とは、人間が共通して背負う業のことです。たとえば社会全体をおそう災害や社会の発展などのように、誰もが共通して受ける因果のことを共業といいます。
これに対して不共業とは個人的な業のことです。たとえば子供が病気で苦しむのを母親が代わってやることはできません。個人的な快楽や苦痛などは不共業なのです。
このように、業は個人的なものでありながら、同時に社会的、歴史的な働きも持っています。
(3)定業(じょうごう)と不定業
大聖人の『可延定業書(かえんじょうごうごしょ)』には、
「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや」(御書七六○ページ)
と説かれています。
定業とは、結果として報いを受けることが決まっている業因のことで、性別とか、容姿とか、両親とか、家柄などです。これらは、例として分かりやすいと思いますが、一見、偶然としか思えない出来事や出会い、更には自らの意思による行動の中にも定業はあります。
この定業の苦しみでさえ、大聖人様は乗り越えて行けると、御教示下さっているのです。
【宿業について】
仏教以外の教えによる人生観は、
①神が人間の運命を支配する
②人間の運命は偶然によって決まる
③人間の一生は過去からすでに決まっている
という三つの見解におおよそ大別できます。
しかし、仏教から見ると、これらはいずれも浅薄(せんぱく)で偏(かたよ)った考えです。仏教では、現実的な因果の理法に立脚(りっきゃく)して、人生の苦楽はすべて自らの業によって決まると説きます。
私たちは自分の生国(しょうごく)や親を決定したり、選定したりすることはできません。また生まれながらに個人の能力や容姿なども、それぞれ異なっています。
この差別相は何に起因するかといえば、生まれる前の業によるのであり、これを宿業と呼びます。
この宿業の考えは、他宗で説くような宿命論とは違います。なぜならば宿業は自らの業因によって、その報いを受けるものであり、私たちは現在の業因によって、未来の人生をいかようにも変化させられるのですから、神などの絶対者によって人生が決められるとか、人生は単なる偶然であると説く宿命論とは全く異なるものです。
【宿業を転換する】
過去世からの宿業によって、現在の私たちはさまざまに拘束(こうそく)されていますが、仏法ではその業報の中にあっても、未来の果報を自らの意志で決定できる
と説いています。
大聖人は『佐渡御書』に、
「宿業はかりがたし(乃至)偏(ひとえ)に先業の重罪を今生(こんじょう)に消して後生(ごしょう)の三悪を脱(のが)れんずるなるべし」(御書 580頁)
と宿業転換(しゅくごうてんかん)の道を説かれています。
私たちは大御本尊を受持する功徳によって、過去世の悪業を転換し、現在と未来に幸福な人生を構築できるのです。
【敬虔(けいけん)なる信仰姿勢】
ただし、大御本尊様を受持すると言っても《どのような姿勢》で受持するかが問題です。
信じている「つもり信心」では、自覚の無いまま御本尊様へ不敬を冒している場合もあります。今一度、確認して下さい。
まず、我々は信仰者として、僧も俗も等しく御本尊様に対し、『敬虔』なる信仰が求められます。
敬虔とは「うやまいつつしむこと。特に、神仏に帰依して、つつしみ仕えること。」と『広辞苑』にあります。
どこまでも、御本尊様を敬い、頭を垂れ、お仕えするのです。
まず、御本尊様へのお給仕が信心の基本です。
どんなに折伏が上手な人でも、教学の進んだ人でも、御本尊のお給仕がおろそかであれば、信心があるとは言えません。
「法華経を 我が得しことは 薪(たきぎ)こり 菜つみ水汲み 仕えてぞ得し」との古歌にありますように、御本尊様に身をもってお仕えすることが、何よりも成仏には必要です。
また、釈尊の弟子・修利槃特(すりはんどく)は自分の名前さえ覚えきれない愚鈍な人でしたが、釈尊から「汝はとにかく塵(ちり)を払えと言うことだけを覚えよ」と言われました。以来、槃特はいっでも「塵を払え塵を払え」とつぶやいて掃除をしていたら、いつの間にか心の中の塵まで払われ、普明如来(ふみょうにょらい)の記別(きべつ)《成仏の保証》を得たということが仏典にあります。
大聖人様も、「たとい根鈍(こんどん)なれども罪なければ得道なる事これあり、修利槃特等是なり。」(322頁)と仰せです。私たちも、仏壇等の塵は常に払っておきたいものです。
このように仏法を体得するということは、ただ仏書を見れば得られるというものではないのです。
甚深の御法門を実践無しに体得することは不可能です。仏法は理解と言うより信解(しんげ)するものですから、仏に仕え、仏の仰せのままに実践するのです。
創価学会は、
「日蓮大聖人の思想と行動を、命を賭して、現代に蘇らせたのが牧口先生、戸田先生、池田先生という創価の三代会長です。」(創価ネット教学入門より)と言いますが、実に慢心極まりない発言です。
大聖人様・日興上人以来、750年にわたる御歴代上人を中心とした僧俗が、数々の法難の中、令法久住してきたからこそ、創価学会も日蓮正宗の御本尊と教義に巡り会え、その間、絶大なる功徳を賜り、破門までは正しい信仰をさせていただけたのです。
その事に対する報恩を微塵も持ち併せず、慢心に堕しているため、今の現証になっているのです。
彼等には「してやった」と言うだけで「させていただいた」という姿勢がないのです。
また、彼等は御書の意味や御法門に関して、すぐに「現代語に訳すと」「分かりやすく言うと」と始めます。
仏教用語の中には、現代語に訳しきれない微妙なニュアンスや感覚、また、そのままで訳さない方が正確に伝わる御法門もあるのです。
幹部は会員から質問されて「分からない」「知らない」と言うのが恥だと思うのか、その場しのぎで適当なことを言って誤魔化します。これは、トップから下の幹部まで皆がそうです。これが、学会が邪義に流れていく温床になるのです。
更に質が悪いのは、「坊さん達は難しい法門を振りかざして得意になりやがって。誰も聞いたって分からないんだよ。」などと、勝手に嫉妬し、怨執までするのです。
そして今や、教学にしろ、修行にしろ、大聖人様の教えに照らして、創価学会が正しいのか間違っているのかを、正しくジャッジできる人間は学会にはおらず、それぞれがバラバラに思いつきで動いています。ただ、内輪で毎日のように自画自賛して、世間から忌み嫌われているだけの哀れな存在なのです。
大きい組織ですし、金も権力も持っていますから、おもねってくる者も世の中には沢山いるでしょうが、誰が善知識で誰が悪知識なのかも分からないのです。
以前、創価学会の仏具屋が《御守り御本尊ファンシージャケット》というカバンにぶら下げるケースや、《御守御本尊マスコットホルダー》と言って、ぬいぐるみがニセ御守りを抱きかかえる仕様のものを売り出したと報告したことがありましたが、彼等が「命がけで信じている」とする学会製本尊であっても、ただ豪語するだけであって、実際の所ニセで功徳が無いわけですから信じ切れないのです。 ですから、学会製本尊は世間の人が神社仏閣で買うお札や御守り程度の扱いしかしないのです。そこに信仰心を失った業者が、金儲けのために次々と趣向を凝らしますから、なんでもアリなのでしょう。
さらには、仏法を馬鹿にしているとしか言いようのない数珠を販売しだしています。
今までは、学会でも数珠の房は白で統一されていましたが、房がピンクや水色などカラフルになり、親玉にはお祈りクマさんの流れなのか、クマの顔が埋め込まれています。
房の色が白というのは日蓮正宗では御相伝によって「白蓮華」を顕すという意味があり、学会でも踏襲(とうしゅう)していました。
しかし、数珠は「成仏の為の三衣の一つ」であり、粗末にしてはいけないと言うことさえ、忘失(ぼうしつ)してしまったようです。
大聖人様は、
「魚はたくさん子を産むが、成魚となるのは少ない、庵羅樹(あんらじゅ)(マンゴー樹)はたくさん花を咲かせるが、実になるものは少ない。
人もまた同じである。一念発起する人は多いが、最後まで成し遂げる者は少ない。凡夫は、多くの悪縁に負けてしまうことが多いものである。」(御書1048頁・趣意)
と仰せですが、まさに御金言の通りです。
仏法は、体得、信解するものですから、私も若い頃は分からなかった御法門が、この年になってようやく信解できるようになってきたこともたくさんあります。
それでも、毎年、教師講習会で御隠尊日顕上人から賜る御講義は甚深であり、未だに私には分からないところが多々あります。しかし、そこがまた嬉しくもあるのです。
どこまでも深い大聖人様の教えは、一生涯研鑽なのです。
私達は、たとえ現在どのような苦悩があろうとも、どこまでも下種三宝様に対する正しい信心をもって、御題目を唱え抜き、日如上人の仰せのまま信行に励むならば、必ず人生における根本的な解決があるのです。
如何なる逆境にあっても、御本尊様を信じ切って、信心修行に励んで参りましょう。