日蓮正宗の功徳は、体験発表的なセンセーショナルなものじゃない?

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体験発表を聞くのが好きな人って・・・

センセーショナル・・・[形動]大衆の興味や関心をあおりたてるさま。

創価学会顕正会で信者の体験発表を見たことがありますか?

法華講でも体験発表はあります。

私は体験発表を全否定するつもりはありません。

しかし、そこで語られる体験は、個人の主観であることを忘れてはいけません。

「功徳・御利益」VS「魔の通力」論争が有名ですが、個人の体験は受け止め方次第(解釈)で、どのようにでもなることを忘れてはいけません。

末法は冥益

日蓮大聖人は『教行証御書』に、

問うて云く上に挙ぐる所の正像末法の教行証各別なり・何ぞ妙楽大師は「末法の初冥利無きにあらず且く大教の流行すべき時に拠る」と釈し給うや如何、答えて云く得意に云く正像に益を得し人人は顕益なるべし在世結縁の熟せる故に、今末法には初めて下種す冥益なるべし已に小乗・権大乗・爾前・迹門の教行証に似るべくもなし現に証果の者之無し、妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり。
 問うて云く末法に限りて冥益と知る経文之有りや、答えて云く法華経第七薬王品に云く「此の経は則ち為閻浮提の人の病の良薬なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」等云云、妙楽大師云く「然も後の五百は且く一往に従う末法の初冥利無きにあらず且く大教の流行す可き時に拠るが故に五百と云う」等云云。(御書1104)

と「冥益」について御指南されています。正法時代や像法時代は「顕益」という利益が目に見える明らかなものでありましたが、末法は「冥益」という人が感じにくい利益であると仰せです。つまり、末法に生まれる人は命が汚れているために、また「本未有善」という仏様の種が無いところに植えたばかりであるので御利益が目に見えにくいので「冥益」なのであります。

「冥益」は「境智冥合(きょうちみょうごう)」という言葉がありますように、我見を誡めて三大秘法の御本尊様と気持ちを一つにするところに、「冥益」の御利益があります。つまり御本尊様を疑い離れてしまえば「冥益」を頂くことは出来ないのであります。

この御本尊様から頂いた「冥益」をもって末法の迷える衆生を済度していくことが出来ます。釈尊法華経の『如来神力品第二十一』に、 

如来の滅後に於て 仏の所説の経の 因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん 日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(法華経516)

と説かれていますように、如来である釈尊が入滅された後には、上行菩薩である日蓮大聖人が御出現あそばされ、「冥益」を示して、末法の人々の闇を滅し、日月のような光明を放たれ衆生済度に当たられることを説いています。
如来神力品第二十一』の

「仏の所説の経の因縁及び次第を知って義に随って実の如く説かん」

という経文を実際に行われた方が日蓮大聖人です。経文の如くに実践された方を「法華経の行者」といいまして、末法の仏様であり日蓮大聖人だけであります。それ以外にはおられません。
『道妙禅門御書』に、 

「祈祷に於ては顕祈顕応(けんきけんのう)・顕祈冥応(けんきみょうおう)・冥祈冥応(みょうきみょうおう)・冥祈顕応(みょうきけんのう)の祈祷有りと雖も、只肝要は、此の経の信心を致し給ひ候はヾ、現当の所願満足有るべく候。法華第三に云はく『魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る』と。第七に云はく「病即消滅して不老不死ならん」との金言之を疑ふべからず」(御書1041)

と仰せのように、御本尊様への祈り方に「顕」と「冥」があり、御本尊様に感応して頂く功徳に「顕」と「冥」があり四種類になります。それが顕祈顕応(けんきけんのう)・顕祈冥応(けんきみょうおう)・冥祈冥応(みょうきみょうおう)・冥祈顕応(みょうきけんのう)です。

末法の現代は、「冥益」が主流でありますので、焦らず地道に御利益を頂くことを待つ姿勢が大切です。この姿勢に信心で培われる「禅定」の境界があります。それが成仏に繋がり、日々の勤行唱題にその全てが含まれています。

怒りっぽくなくなることが第一

創価学会員も顕正会員も怒りっぽいですよね?

ネットでの誹謗中傷合戦がとてもひどいです。

一部の法華講員も過去の害毒か知りませんが、同じような境界に堕ちている人がいます。

これは、かつての自分を見ているようで恥ずかしくなります。

問うて曰く経文並に天台章安等の解釈は疑網無し但し火を以て水と云い墨を以て白しと云う設い仏説為りと雖も信を取り難し、今数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず自面も亦復是くの如し如何が信心を立てんや、答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

「 瞋るは地獄」という言葉は有名ですが、瞋るにいたる縁は様々でしょうが、怒りっぽいというのは地獄の命が強いということの現れではないでしょうか。「平かなるは人なり」でありますし、

一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ。(崇峻天皇御書)

崇峻天皇御書には、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と御教示下されておりますよね。

イライラが減り安穏の境界に至ることこそが、本当の功徳じゃないでしょうか?

何か人に自慢できるような話のタネを探したり、自己満足の自惚れの心を満たすことが仏法の目的ではないでしょう。「瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天」と「平かなるは人なり」が、六道の中で五一の相対のごとく、一線を画して対峙しているように思えるのも、私の私見ではありますが不思議ですよね。

私の近況

それで、私の近況なんですが。

本日、懸案だった仕事での課題がクリアできまして。。。

まあ、ホッとしておるのであります。

夕勤行にて大聖人様に御報恩申し上げました。

そして、年初に立てた一年の目標のひとつ、2月の支部総登山への参加が可能になりましたことも報恩感謝申し上げました。

人手不足にインフルエンザの流行・・・。

一か月以上先の話とはいえ、3連休の申し込みには勇気がいりました。

「ポリ銀さん遠慮せずどうぞどうぞ、まったく有休も使ってないんですから・・・」

事務員の言葉に耳を疑いましたが、手続き上問題なく予定が立ちました。

後は・・・私が己心の魔に負けないこと。そして、障魔を克服する信心を貫くこと。

ですね。。。

自分の身辺を見回しても、懸案事項は色々ありましたが、自然に消滅しました。

家の裏の空き地活用問題。隣家の創価問題。。。ここ一年で解決しました。不思議というか勝手に。。。

経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき、「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん、又申し候当国の大難ゆり候はば・いそぎ・いそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は露命計りなり天たすけ給へと強盛に申し候、浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。(経王殿御返事)

こんな私にも「 現世安穏」が現出しつつあります。

「いそぎ・いそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし」のお言葉。

佐渡配流が赦免となったならば、さっそく鎌倉に赴むき、経王御前の母に会うことを約束され、さらには経王御前のことを強盛に祈念していることを述べて本抄を結ばれています。

私も、大聖人様に一昨年の御登山以来のことをご報告に行かねばなりません。

日蓮正宗の功徳の一番は、御本仏日蓮大聖人様(戒壇の大御本尊様)への、御開扉を賜ることで直接お会いすることが叶うことではないでしょうか?

どうか、世法上の団栗の背比べに興じている、創価・顕正の諸君は、一日も早く日蓮正宗に帰依し御開扉を受けさせていただくことを願うべし。

日寛上人は『寿量品談義』に、

未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。(富要一〇巻一三一頁)

と仰せられています。

日蓮正宗 寺院紹介 全国で御授戒・勧誡式を受けて日蓮正宗信徒になれば、内拝が許されます。その身分になって初めて、血脈が末寺様・各家庭の御本尊様から流れ通ってくるのです。これは、必ず実感できます。


日蓮正宗・法華講 修利槃特〜すりはんどく〜 法華経の教え・女人成仏


日蓮正宗の正しいご本尊 The correct Gohonzon of NICHIREN SHOSHU