創価学会・顕正会・正信会・他門日蓮宗は、みんな外道宗教です。

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外道には三種類の外道が存在しています。

大白法・平成21年10月16日刊 (第775号より転載) 

 信行を磨く (138)
 御本尊に正直にお仕えして成仏しましょう
菅原信了御尊師
 
 諸天の御加護を賜り、未み曽ぞ有うの「七万五千名大結集総会」を慶賀し奉り、早くも二カ月半が過ぎました。全国各末寺において、御本仏日蓮大聖人への御報恩の御会式が厳粛に奉修される十月になりました。
 大総会の砌みぎりに御法主日如上人猊下より賜りました「平成二十七年、各支部法華講員五十パーセント増」の御命題に対し奉り御奉公申し上げるべく、企画立案し、発進を開始せんと各人各支部が体勢を調えていることでしょう。
 
 信仰の目的は成仏にあり
 去る、「行動の年」の年頭に御法主日如上人猊下は、
「正しい御本尊に対して信を取る事が成仏の絶対条件であって、以信得入と云っても正しい御本尊に対して信を取らなければ成仏は叶わないのであります」(大白法 七〇八号)
と御指南くださいました。「信を取る」と仰せの御意を、どのように拝し奉るべきでしょうか。『新池御書』に、
「此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ」(御書 一四六〇㌻)
と仰せられています。「私なく」とは、自分の知識や経験、あるいは感情によって造り出した信仰ではないということです。法華経『方便品第二』に、
「其その智慧の門は、難なん解げ難なん入にゅうなり。一切の声しょう聞もん、辟ひゃく支し仏ぶつの知ること能あたわざる所なり」(法華経 八八㌻)
と説かれています。即ち、二乗の人々のような権教の智慧では法華経を解ることも、その門に入ることも難しいことである、と説かれているのであります。
 一般的に信心とは御本尊の前に座り、数珠を持ち経文を誦じゅす。このような敬けい虔けんな姿を想い起こします。あるいは題目を唱えているから、あるいはお給仕をしているから信心していると決めている人もいます。これは、自分勝手な思い込みではないでしょうか。これらの考えのもととなっているものは、一般の既成仏教の考え方であり、あるいは創価学会等が自分流に創作した信仰の概念から造り出した相すがたであります。
 
 外道義について
 『開目抄』に、
「仏後の外道は仏教をきゝみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もっともふかし。附ふ仏教、学がく仏ぶっ法ぽう成じょう等これなり」(御書 五二七㌻)
と仰せられています。
 外道には、仏教外の外道と、附仏教の外道、学仏法成の外道との三種があり、附仏教と学仏法成の外道については『摩訶止観』に注意しなければならない釈が示されています。それは、
「自ら聡明なるを以て、仏の経書を読んで一見を生ず。仏法に附して起る」(摩訶止観弘決会本下 六四七㌻)
と附仏教の外道の相を釈し、次に学仏法成の外道については、
「仏の教門を執して煩悩を生じ、理に入ることを得ず」(同 六五〇㌻)
と釈されています。世間から仏教と認められている宗派でも、釈尊の法門から大きく外れている仏教等の信仰観は、附仏教に似ています。また、日蓮大聖人様の法門義から外れている各派、題目を唱えている新興宗教は学仏法成に当たると観ることができます。そうであれば、釈尊の教えから外れ、日蓮大聖人様の法門義から外れた各団体の考え方では本門の仏法を正しく信仰することは難しいことになります。寧むしろこの信仰の誤りを正直に捨て、大聖人様の教えに従う勇気を起こすことが必要なのです。自ら誤りに気づき、これを正す強い心が成仏に近づく信心なのであります。いずれにしても御本尊様に正直に仕える心で素直に行動を起こすことが大事なことであります。
 
 「蒼蝿驥尾に附す」勇気
 「題目を唱えている」と叫んでいても、その題目が「本門の題目」であるとは言えないのであります。何故でしょう。
 第二十六世日寛上人が『寿量演説抄』に、
「既に本門の戒壇の御本尊存まします上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり」
と御指南されています。
 本門戒壇の大御本尊様に対し奉り、唱え奉るから「本門の題目」なのであります。したがいまして、御法主上人猊下が「正しい御本尊に信を取る」との御指南は、御本尊様にお仕えする、大聖人様の教えに仕つかえ奉る心を仰せられていると確信いたします。何故このように信ずるのか。『立正安国論』に、
「予よ少量たりと雖も忝かたじけなくも大乗を学す。蒼そう蝿よう驥き尾びに附して万里を渡り」(御書 二四三㌻)
と仰せられています。大聖人様のこの御文を、凡夫の我々に当てはめて拝し奉りますに、小さな器の凡人が、成仏とは遥か遠い境界であると想像して我意我見の我が儘ままな信心をしていた者が、御本尊様を信じ、大聖人様の教えを信じ、御法主上人猊下の御指南を素直に実行しているうちに、小さな器の者が成仏の境地に到達することになると、このように拝読することができます。
 成仏のために謗法罪障の消滅を心で祈っても、謗法を折伏しなければ成仏は難しいのであります。何故でしょうか。自分は謗法を犯していなくとも、折伏しなければ謗法を認めていることになるからであります。大聖人様の教えではない信仰は外道の心の信仰になります。それでは成仏は難しいですね。
 いえ、難しくはないのです。難しくしているのは不正直な心の自分自身であります。凡夫の狭い心ですね。
 時々「成仏させてください」との言葉を聞きますが、成仏は誰かにさせてもらうのでしょうか。
 信心・勤行・唱題・折伏、さらに総本山大石寺に登山する、信心についてのあらゆることは、我が成仏のために実際に自分で行わなければなりません。誰かが成仏させてくれるのではないのです。
 成仏は、仏身を成就することで、自分が自身で御本尊様に正直にお仕えする。その正直な信力と素直に実行する行力に因よって成仏の境界を得るのであります。
 有り難くも御本尊様にお仕えし、御奉公し奉る身となって、今こそ勇気を起こして謗法を折伏し、御本尊様に正直にお仕えしましょう。

仏教外の外道と、附仏教の外道、学仏法成の外道・・・一般世間の日本人は、仏教外の外道(素朴な科学主義や、様々な学問)に迷っています。学校教育的外道と呼ぶべきでしょうか?これについては、元創価学会の教学的重鎮だった、石田次男氏の考察を随時UP中なので、興味のあるかたはご参照ください。 

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創価学会顕正会を脱会しても日蓮正宗に戻らず、逆に日蓮大聖人様への信心を見失い、戒壇の御本尊様へ誹謗中傷をする人々がいます。

何でそんなお粗末なことになるのか?私なんかよりもはるかに、熱心に創価・顕正の活動をしていた人の多くが、一闡提人に成り下がるのか?不思議でした。

それは、「信仰の目的は成仏にあり」ということがわからず、「幸福製造機」という言葉に象徴されるような、餓鬼界の乞食信仰でしかないからなのでしょう。

入信動機は苦悩の解決が目的であってもいいと思います。

実際に功徳を感じ現世利益も出るでしょう。しかし、いつまでも自性(事物をそのものたらしめている本来的な不変の性質・魂や自分を指す「我」があるとの思い込み)に執着した、幸福なるものへの執着で信心をしていると、外道信心になってしまうのです。

不幸を感じた時、短絡的に「信心をしているのになぜ?」「功徳がない」などと、簡単に大御本尊を捨て去ってしまうのです。

日蓮正宗の信仰は成仏するための信仰です。

私は自分の父の葬儀で確信を得ました。

どうか、創価学会顕正会という学仏法成の外道に疑いを生じたとしても、日蓮大聖人様のことを思い出してほしいのです。そして、本来の戒壇の大御本尊様への信心を取り戻してほしいと思います。

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