ダメおやじの空想:仏法と宇宙について語る~戒壇の大御本尊様は宇宙に一体だけ?~

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まずはYouTubeの動画をご覧ください。


宇宙の大きさが実感出来る動画[full HD]

実感できませんね。。。

私たちの住む地球は、天の川銀河に属していますが、天の川銀河の大きさが直径10万光年だそうです。

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光の速さで端から端まで10万年かかるって・・・凡夫では無理。

(/□≦、)エーン!!

でも、宇宙の不思議って、同じくらいの大きさのアンドロメダ大星雲は、離れてみているから一瞬で全体が視野に入るんだよね。

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地球までの距離は、2,537,000光年だそうです。

つまり、地球で目にしているアンドロメダは253万7千年前の姿。

天の川銀河の恒星の数は、2500億 ± 1500億個と推定されるてます。

アンドロメダ銀河では1兆個なんだって。

そんな途方もないスケールの銀河が集まって、銀河団を形成しているんだそうです。

銀河団に含まれる銀河の数は、数百から1万におよぶそうです。

∑( ̄ロ ̄|||)なんと!?

で、宇宙に銀河団がどれだけあるのか。。。下の動画を観てください。


地球と他の惑星・恒星・銀河との距離

宇宙の全てが解明できたわけではないけど、想像を絶しますね。

星の数も恒星だけで無限。

惑星も含めると。。。

そんな大宇宙に人類だけが生きているなって思う方がナンセンスだけど、三世十方の仏様が各地で化導をされていると仏法でも説いておりますが・・・。

末法の御本仏様はただ御独りなはず。

つまり、仏法に値い難いとういうのもたとえ話ではないようですね。

以前に、よくお話を聞かせてくださった御僧侶が、「広宣流布っていうのは、地球だけで終わりじゃないんですよ。宇宙のあらゆる衆生に届けなければならないんです。」って仰ってましたが、そんなスケールなのか?って驚きました。

でも、

日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし(報恩抄)

との御本仏様の仰せです。

きっと一万年以上先まで、いや尽未来際まで仏法は流布していくってことでしょう。

尽未来際とは、未来が尽きる際(きわ)という意味です。時間が終わるその時まで、時間が終わるとは、宇宙が消滅するときまでということでしょう。

宇宙とは、「宇」は「天地四方上下」(つまり上下前後左右、三次元空間全体)を意味し、「宙」は「往古来今」(つまり過去・現在・未来、時間全体)を意味します(中国の戦国時代の書物・「尸子巻下」)。

つまり、「宇宙」で時空(時間と空間)の全体を意味するのです。(漢代の書物・「淮南子斉俗訓」)

爰に愚人席をさり袂をかいつくろいて云く誠に聖教の理をきくに人身は得難く天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に仏法は聞き難くして一眼の亀の浮木に遇うよりも難し、今既に得難き人界に生をうけ値い難き仏教を見聞しつ今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき(聖愚問答抄下)

うん。納得です。松野殿後家尼御前御返事に日蓮大聖人様の、一眼の亀のお話が書かれておりますので、よくよく拝読なさってください。

仏のたとへを説かせ給うに一眼の亀の浮木の穴に値いがたきにたとへ給うなり、心は大海の中に八万由旬の底に亀と申す大魚あり、手足もなくひれもなし・腹のあつき事はくろがねのやけるがごとし、せなかのこうのさむき事は雪山ににたり、此の魚の昼夜朝暮のねがひ時時剋剋の口ずさみには・腹をひやしこうをあたためんと思ふ、赤栴檀と申す木をば聖木と名づく人の中の聖人なり、余の一切の木をば凡木と申す愚人の如し、此の栴檀の木は此の魚の腹をひやす木なり、あはれ此の木にのぼりて腹をば穴に入れてひやし・こうをば天の日にあてあたためばやと申すなり、自然のことはりとして千年に一度出る亀なり、しかれども此の木に値事かたし、大海は広し亀はちいさし浮木はまれなり、たとひよのうきぎにはあへども栴檀にはあはず、あへども亀の腹をえりはめたる様に・がい分に相応したる浮木の穴にあひがたし我が身をち入りなばこうをも・あたためがたし誰か又とりあぐべき、又穴せばくして腹を穴に入れえずんば波にあらひ・をとされて大海にしづみなむ、たとひ不思議として栴檀の浮木の穴にたまたま行きあへども我一眼のひがめる故に浮木西にながるれば東と見る故にいそいでのらんと思いておよげば弥弥とをざかる、東に流るを西と見る南北も又此くの如し云云、浮木には・とをざかれども近づく事はなし、是の如く無量無辺劫にも一眼の亀の浮木の穴にあひがたき事を仏説き給へり、此の喩をとりて法華経にあひがたきに譬ふ、設ひあへどもとなへがたき題目の妙法の穴にあひがたき事を心うべきなり、大海をば生死の苦海なり亀をば我等衆生にたとへたり、手足のなきをば善根の我等が身にそなはらざるにたとへ、腹のあつきをば我等が瞋恚の八熱地獄にたとへ・背のこうのさむきをば貪欲の八寒地獄にたとへ・千年大海の底にあるをば我等が三悪道に堕ちて浮びがたきにたとへ、千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて釈迦仏の出世にあひがたきにたとう、余の松木ひの木の浮木には・あひやすく栴檀にはあひがたし、一切経には値いやすく法華経にはあひがたきに譬へたり、たとひ栴檀には値うとも相応したる穴にあひがたきに喩うるなり、設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう、東を西と見・北を南と見る事をば我れ等衆生かしこがほに智慧有る由をして勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ、得益なき法をば得益あると見る・機にかなはざる法をば機に・かなう法と云う、真言は勝れ法華経は劣り真言は機にかなひ法華経は機に叶はずと見る是なり。
 されば思いよらせ給へ仏・月氏国に出でさせ給いて一代聖教を説かせ給いしに四十三年と申せしに始めて法華経を説かせ給ふ、八箇年が程・一切の御弟子皆如意宝珠のごとくなる法華経を持ち候き、然れども日本国と天竺とは二十万里の山海をへだてて候しかば法華経の名字をだに聞くことなかりき、釈尊御入滅ならせ給いて一千二百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ、いまだ日本国へは渡らず、仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・欽明天皇と申せし御門の御時・百済国より始めて仏法渡る、又上宮太子と申せし人唐土より始めて仏法渡させ給いて其れより以来今に七百余年の間・一切経並に法華経は・ひろまらせ給いて、上一人より下万人に至るまで心あらむ人は法華経を一部或は一巻或は一品持ちて或は父母の孝養とす、されば我等も法華経を持つと思う、しかれども未だ口に南無妙法蓮華経とは唱へず信じたるに似て信ぜざるが如し、譬えば一眼の亀のあひがたき栴檀の聖木には・あいたれども・いまだ亀の腹を穴に入れざるが如し、入れざればよしなし須臾に大海にしづみなん、我が朝七百余年の間此の法華経弘まらせ給いて或は読む人或は説く人或は供養せる人或は持つ人稲麻竹葦よりも多し、然れどもいまだ阿弥陀の名号を唱うるが如く南無妙法蓮華経とすすむる人もなく唱うる人もなし、一切の経一切の仏の名号を唱うるは凡木にあうがごとし、未だ栴檀ならざれば腹をひやさず・日天ならざれば甲をもあたためず、但目をこやし心を悦ばしめて実なし華さいて菓なく言のみ有りてしわざなし。(松野殿後家尼御前御返事)