なぜ日蓮正宗に縁しながら魔道に堕ちるのか?染浄の二法に学ぶ

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異流儀の跳梁跋扈が、この国をどんどんと窮地に追いやりつつある昨今ですが、元々日蓮正宗信仰の家系に生まれるという福運を持ちながら、魔道に堕ちる人々は後を絶ちません。

問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり(当体義抄)

日蓮大聖人様は当体義抄にて、一切衆生の当体が妙法の全体であるのになぜ地獄や、その他の九界が存在するのかという疑問を立てられ、染浄の二法という不可思議な法理を以て答えとされています。

仏とは九界の衆生の事なり、此の開覚顕れて今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が妙法を示す示仏知見と云うなり、師弟感応して受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり、悟つて見れば法界三千の己己の当体法華経なり此の内証に入るを入仏知見と云うなり秘す可し云云(御義口伝巻上)

御義口伝にも衆生の当体が法華経(妙法)であるとお示しです。しかし、大事なのは 「今身より仏身に至るまで持つや否や」ということでしょうね。御授戒で口に出して唱えた言葉です。魔道に堕ちる人は、悪縁・悪知識に誑かされて「仏身に至る」前に捨ててしまうのです。

捨てる理由は千差万別で、捨てた人々の言い分を聞けば釣り込まれそうになるほど、正当性を誇張しています。しかし、どのような理由があっても日蓮正宗戒壇の大御本尊を捨ててしまえば、悪趣に赴く他に道は存在しません。

博識な批判者に「正宗系観察日記」というブログがあります。このブログの作成者も、日蓮正宗系の信者の家に生まれているようです。地獄界のパワーとでもいうのでしょうか、物凄い勉強量ですが地獄への一本道を歩んでしまいました。

gachinbow.hatenablog.com

見るからに禍々しさが漂うプロフィール画像ですが。。。

詳細に読めば、相伝ということと、擣篩和合(とうしわごう)がわかっていないだけというのがわかります。悪知識ですから近づくことはお勧めしませんが。

破折してみろと息巻いておりますが、そもそも論でいうところの「信」なき衆生、いわば一闡提人ですので、このような人が納得するような形の破折など存在しないのです。

信心の深さは日蓮正宗の御僧侶に親しみ、我々在家としては常随給仕(じょうずいきゅうじ)までできなくとも、折に触れたお話などを頂戴するときハッと気づかされることから、徐々にわかってきます。相伝というのは文書形式で残っているものだけではないのですが、信がなければ納得などとうていできないのです。

考えてみればわかることですが、仏教学の知識で日蓮正宗を攻撃する人々も、釈尊の悟り自体を認めない無信仰者には歯が立たないのです。

現在は内外相対以前の外道中心の思想が、我々日本人を蝕んで久しいですから、断見に犯された一闡提人が国土に充満している状態なのです。

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三大秘法の開合を説き明かす 【依義判文抄第三】三

問う、更さらに勘文有りや、若し爾しからば聞くこと得べけんや。

答う、勘文無きに非ず、若し之を聞かんと欲せば先ず須すべからく三大秘法開合の相を了すべし。若し之を了せずんば経文を引くと雖いえども恐おそらくは解げし易やすからじ云云。

問う、若し爾らば三大秘法開合の相如何いかん。

答う、実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為なし、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。 又本尊に人有り法有り、戒壇に義ぎ有り事じ有り、題目に信しん有り行ぎょう有り、故に開して六義を成す、此の六義散じて八万法蔵と成る。例せば高僧伝に「一心とは万法の総体分かって戒かい定慧じょうえと為り、開して六度と為り、散じて万行と為る」と云うが如し。当に知るべし、本尊は万法の総体なり、故に之を合する則ときは八万法蔵但ただ六義と成り、亦此の六義を合する則は但ただ三大秘法と成る。亦また三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり。若し此の開合の意を得ば亦所引しょいんの文意を得ん云云。 

日寛上人様は依義判文抄にて、三大秘法の開合を説き明かしておられますが、これが私が以前にもご紹介したことがある、演繹法で学ぶ教学の姿なのです。一大秘法の戒壇の大御本尊様から、三大秘法に開き、六義を開いてさらに八万法蔵と成すのです。本尊は万法の総体ですから、逆に合する方向に会通していけば一大秘法に成るというのですが、逆ベクトルのことを擣篩和合(とうしわごう)といい、凡夫にはできない本仏の所作なのです。

色んな日蓮正宗批判のサイトのどこにも、法体(本尊)が明示されておらず偏頗な会通で自己満足に終始してしまっているのは、帰納法的な学問では本仏の悟りには及びもつかない証拠です。

日蓮正宗の教学は難しくもありますが、素直に学んでいけば清々しく心が晴れ晴れとしてまいります。どうか、創価学会顕正会に惑わされている方々、そのような間違った組織に嫌気がさして、仏法の信仰自体を捨ててしまった方に、もう一度信心を届けたいという思いに日々心を砕いております。

開目抄下 
         文永九年(1272年)二月 聖寿五十一歳御著作

 詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。
 身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責めを堪へざるゆえ。
 久遠大通の者の三五の塵をふる、悪知識に値ふゆへなり。
 善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。
 大願を立てん。
 日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ。父母の頚を刎ねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。
 我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願やぶるべからず。

 (新編御書572ページ、御書全集232ページ)
    
            ◇◆◇◆◇◆

■現代語訳

 結局のところは、諸天も、私(日蓮大聖人)のことを捨てなさい。
 諸難に遭ったとしても、構いません。
 私(日蓮大聖人)の身命を期する次第です。

 舎利弗は、六十劫の菩薩の行を退転してしまいました。
 それは、乞眼のバラモンの責めに、堪えられなかったからであります。

 (注、舎利弗が六十劫という極めて長期間の菩薩〈布施〉の行をしていた時に、バラモン舎利弗の眼を乞いに来た。舎利弗は眼を提供したが、乞人のバラモンは、舎利弗の眼を捨てて踏みにじった。そのため、舎利弗は、菩薩〈布施〉の行を退転した。以上の内容が『大智度論』に記されている。)

 五百塵点劫の過去に下種を受けながら、また、三千塵点劫の過去に下種を受けながら、今日に至るまで成仏出来なかったのは、仏道修行を妨げる悪知識に遭ったからであります。

 善きにつけ、悪しきにつけ、法華経(三大秘法の御本尊)を捨てることは、地獄に堕ちる業因となる行為です。

 大願(本願)を立てる事に致しましょう。

 たとえ、「法華経を捨てた上で、観無量寿経等の念仏の教えに就いて、後生を期するならば、日本国の位を譲ってあげましょう。」「念仏を称えなければ、父母の首を刎ねるぞ。」等の種々の大難が出来したとしても、智者によって、我が義(日蓮大聖人の法義)を破られることがなければ、用いることはありません。

 その他の大難は、あたかも、風の前に、塵が飛ぶようなものであります。

 私(日蓮大聖人)は、日本国の柱となりましょう。
 私(日蓮大聖人)は、日本国の眼目となりましょう。
 私(日蓮大聖人)は、日本国の大船となりましょう。

 これらのことを誓った大願(本願)を、破ることは致しません。
    
            ◇◆◇◆◇◆

■参考文献

 『日寛上人文段(開目抄愚記)』

 一、詮ずるところ等文。
 この下は三に結文なり。謂わく、法華の行者の心地を結示するなり。若しこの心地決定せざれば、法華経の行者に非ざるなり。この下の九行余りの文、肝心なり。中に於ても別して肝要の文あり、意を留むべきなり。

 一、善に付け悪につけ等文。
 「日本国の位をゆづらむ」とたばかるは善につけてなり。「父母の頚を刎ねん」とおどすは悪につけてなり。これ世間の極善・極悪を挙ぐるなり。

 一、大願を立てん句、日本国の位をゆづらむ句、法華経をすてて観経等について後生をごせよ句、父母の頚を刎ねん、念仏申さずば云云。一たびこの文を拝せば涙数々降る。後代の弟子等、当に心腑に染むべきなり云云。

 一、我日本(国)の柱とならむ等文。
 この下に三譬。只師の徳のみに譬うるか、或は三徳に配するか。 

「 善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。」の善に付けというのが、一番大切なことだと思うのです。法華経戒壇の大御本尊様・法体)を捨てるのに、善となる理由など存在しませんが、凡夫は皆、我見を善と思い込んでおります。

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池田先生が、浅井先生が、〇〇という仏教学者が、そして自分の拙い心が、捨てる理由にはならないのです。どうか、日蓮正宗の御僧侶の御教示に触れてみてください。

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