日蓮正宗の血脈相承に不信を抱く異流儀の方々へ

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我々在家信徒にとっては、日蓮正宗の血脈相承は信仰の根本です。

創価学会顕正会(妙信講)・正信会・離脱僧もかつては、代々御歴代上人の血脈相承を信じていたはずです。

それが、近年になって各異流儀は口を揃えて、猊下様の血脈に異議を唱え誹謗しております。

身延や池上等の他門日蓮宗とて同じ穴の狢で、大聖人滅後早々から日興上人様への血脈相承に不信や怨嫉を抱き、自分たちで勝手に一宗一派をたて、多くの僧俗を堕地獄へと誘っております。

 

日蓮正宗信徒は、血脈相承のことを法水写瓶ともお呼びしております。

法水写瓶とは瓶(かめ)から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつすように、師匠から弟子へ法門を少しも漏れることなく正しく伝えることです。

しかし、これが唯授一人であるということが気に入らない、納得できないというのが日蓮正宗以外の日蓮〇〇宗や各種団体なのです。

そして、もう一つ気に入らないのが、戒壇の大御本尊様です。日蓮大聖人様の真筆御本尊様と呼ばれる御曼荼羅は、数多く現存しておるようですが。日蓮正宗では戒壇の大御本尊様以外の御本尊様は未究竟の御本尊として、末法の全世界の衆生が成仏するための修行に御祈念させていただくための、根源の御本尊様ではないとしています。本門の本尊に関する詳しい解説は、日顕上人様の「三大秘法義」をお読みください。 

三大秘法義

三大秘法義

 

つまり、日蓮正宗の血脈相承も戒壇の大御本尊様も、まさしく一に止まる正しさを主張しているからということでしょう。

日寛上人様の立正安国論愚記を引用させていただきますと・・・

三に本門の戒壇に約せば、凡そ正とは一の止まる所なり。故に一止に从したがうなり。一は謂く、本門の本尊なり。これ則ち閻浮第一の本尊なるが故なり。本尊抄の文の如し。またこれ一大事の秘法なるが故なり。南条抄の文の如し。故に本尊を以て一と名づくる者なり。止しはこれ止し住じゅうの義なり。既にこれ本尊止住の処なり。豈あに本門の戒壇に非ずや。立とは戒壇を立つるなり。御相承に云く「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ」等云云。故に但ただ立正の両字に於て三箇の秘法を含むこと文義分明なり。

と、明解に御指南下されております。

まさに、「一の止まる所」が日蓮正宗本山大石寺であることが、気に入らない、納得できないということなのですね。

他門日蓮宗系列も異流儀三派(創価学会顕正会・正信会)も、自分たちこそが正統な日蓮大聖人の継承者だと主張したいだけなのです。

さて、私のような浅学の者に、血脈相承や戒壇の大御本尊様の正統性を詳細に論証せよと言われても、不可能と言わざるを得ません。

まさに、『此の経は相伝に有らざれば知り難し』【一代聖教大意】(新編92頁8・全集398頁3)なんですが、特に創価学会の皆様にお伝えしたいのが、私のブログでもリンクを貼ってある「日蓮大聖人御書全集 全文検索」からは、削除されちゃってるんですね。よほど痛いんでしょうね。

ちなみに、大聖人様の仏法が血脈相承による、相伝仏法であることの文証は以下の通りです。

【一代聖教大意】(新編92頁8・全集398頁3)
『此の経は相伝に有らざれば知り難し』

【立正観抄】(新編770頁6・全集530頁15)
『当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり』

【四恩抄】(新編268頁7・全集938頁11)
『僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬えば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習い伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云て是を悩ますは、此の人仏法の大灯明を滅せんと思え」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。』

【本因妙抄】(新編1684頁12・全集877頁9)、
『血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。』

【百六箇抄】(新編1702頁6・全集869頁9)
『但し直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり』
第二祖日興上人【佐渡国法華講衆御返事】
『案(あん)のごとく聖人(しょうにん)の御(おん)のちも、末(すえ)の弟子どもが、誰(たれ)は聖人の直(じき)の御弟子と申す輩(やから)多く候(そうろう)。これらの人、謗法にて候なり』(歴全1-184頁)

●経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御 書には此経は相伝に非ずんば知りがたしと仰せられて居る。
(第65世日淳上人『日淳上人全集』1444頁)
●仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1442頁)

さて、ここまで読まれて異流儀の方は、なんだ「論証」できねえのか?とお思いかもしれません。

要するに創価も他門日蓮宗も、不可知の血脈相承を信じることができなくて、迷ってらっしゃるんですよね。だから、仏教学風の考証学なんかを持ち出してきて、さんざん御歴代のどの代で血脈が途切れたとか、色々なことをおっしゃっているんですよね。

でも、信心と言うのは学問ではないのです。学問はあくまでも帰納法で構築するものです。個々の真理をつなぎ合わせて、普遍的な真理を目指すという姿勢は評価できても、結果的には永遠に完成しません。それについては、フッサールの諸学の危機をお読みください。 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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では、日蓮正宗の教学的に私がどのように納得したのかをご紹介しましょう。

簡単なことです。

信心の血脈とはなにか?その根本は戒壇の大御本尊様です。

戒壇の大御本尊様を相承されていらっしゃるのは、日蓮正宗猊下様です。総じては信徒すべてに血脈は流れ通ってきますが、別してのお方がいなければ流れては来ないのです。これを仏縁と申し上げてもよろしいのではないでしょうか?「縁なき衆生は度し難し」というお釈迦様の言葉が、人口に膾炙しておりますのでお聞き及びの方もあるでしょう。仏縁と呼ぼうが、血脈と呼ぼうが、仏様の救いの手が届くか届かないかの鍵になるということがお分かりになるかと思います。

この解釈は、総別の二義から演繹的に導き出した結論です。大聖人様の御指南を下記に引用させていただきます。

夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云、釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と、抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず、今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり、此の内証に声聞・辟支仏更に及ばざるところを次下に一切声聞辟支仏所不能知と説かるるなり、此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う是を本化付属の法門とは云うなり。
 然るに上行菩薩等・末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は全く弥陀・薬師に遇て成仏せず譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり、法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし、但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり、末世の僧等は仏法の道理をば・しらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふなり、但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ、文句の一に云く「既に未だ真を発さざれば第一義天に慙じ諸の聖人に愧ず即是れ有羞の僧なり観慧若し発するは即真実の僧なり」云云、涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり、経に云く「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」釈に云く「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住す」又云く「初め此の仏菩薩に従つて結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」云云、返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり、若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候、恐恐謹言。
 建治二年丙子八月三日 日 蓮花押
 曾谷殿

(曾谷殿御返事)

何度もお読みください。

戒壇の大御本尊様から離れてしまうということは、血脈からも離れてしまうことが理解できるかと思いますが。

お読みくださっている貴殿に、少しでも仏縁のあらんことをお祈りいたします。正義に気づかれた方は、下記のリンクから最寄りのお寺でも、遠方のお寺でも自由ですからアポをとってご相談してみてください。そこから、人生の蘇生がはじまります。

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観心本尊抄講話 第一巻

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