43.差別即平等・平等即差別

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 南無妙法蓮華経の大真理は、法界全体に遍満する。したがって、題目を唱える功徳は、何人においても全く等しい。これについて大聖人は、智者も愚者も、

「更に勝劣あるべからず」(松野殿御返事・御書一〇四六ページ)

と教示され、それは、愚者の持つ金も智者の持つ金も、愚者の火も智者の火も、その差別はないのと同じであるという譬えである。たしかに差別はないが、これを使用する場合、智者と愚者の違いが生ずる。智者は、現在と将来に備えて正しく意義ある活用をするが、愚者は、先行きも考えず無駄に費消したり、自他が迷惑するような使い方をする。これを仏法の本義から見れば、法華経の心に背いて唱えるのは愚者であり、法華経の心に順って唱えるのは智者であって、そこに差別が存するのである。

 法華経の心によって唱えるとは、仏の大慈悲を深く信じ、自他異体同心にして自行化他、法華経の正義を増長することである。これに対し、法華経の心に背くとは、色々な形で謗法退転の姿があるが、その因となることにつき、法華経譬喩品に十四誹謗が説かれている。これは、一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善であり、さらに、

「此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐る可し恐る可し」(同ページ)

との大聖人の御指南が拝される。法華経を持つ者は仏であり、これを謗ずれば罪を得る。互いの仏界の功徳を尊重し、唱える題目の功徳は「釈尊の御功徳と等しい」と仰せられている。この誹謗の行為は、右十四誹謗のなかの第一の憍慢、すなわち憍り高ぶる心が基をなすのである。この憍慢が原因となり、他の十三誹謗もことごとく行うようになる。正信の僧俗は、この原因をはっきり見定め、正しい自行化他の題目を行じなければならない。 

三大秘法義

三大秘法義