36.当体蓮華の証得
本門の題目を唱える重要な意義内容として、当体蓮華の証得という『当体義抄』の指南が存する。当体とは、譬喩に対する語である。『玄義』巻七に、蓮華と仏法の譬えについて、一往は譬えによって経題の義を顕すと示される。すなわち権実の法門は、これを説き顕すのが難しいので、譬えを華草の蓮華に借りて経題を標すると述べている。しかし、再往は蓮華は譬えではなく、直ちに妙法当体の理であるとしている。すなわち、
「今蓮華の称は是れ仮喩に非ず。乃ち是れ法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙なり。此の法門を名づけて蓮華と為す。即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」(玄義会本下二八二ページ)
と示し、さらに蓮華とは、法の蓮華か、華草の蓮華かの問いを構え、
「定めて是れ法の蓮華なり」(同二八三ページ)
と断じている。
故に当体蓮華とは、妙法が直ちに蓮華であり、その当体そのものである。
大聖人の弟子檀那となり、正直に権教諸宗の邪法邪師の邪義を捨て、正直に正法正師の正義を信ずるとき、難解な妙法蓮華をおのずから証得し、仏果を成ずる。依報と正報は一体であるから、その住処は常寂光となり、その正報である衆生に、不思議な妙法蓮華の当体を現ずる。故に、あくまで信心に徹して御本尊に向かい、唱題を励むことが大切である。
なお、譬喩の法門では為蓮故華、華開蓮現、華落蓮成の本迹六譬や、十如実相による蓮華の相貌、その他、多くの法門が説かれているが、ここでは省略する(詳細は『妙法七字拝仰』下巻九四ページ~二一七ページ、「蓮華」の頁を参照)。