35.文底の成道の相
本門の題目の利益は、仏法と世法の一切にわたるが、大聖人の御書では当然、仏法乃至、仏法上の表現による指南が多く拝される。衆生には、迷いの元となる煩悩、また、それによって行う諸々の作業と、その業の報いによる種々の苦悩がある。いわゆる煩悩・業・苦の三道で、これが衆生の三世にわたる迷妄の姿である。しかるに、邪宗の方便経を捨てて御本尊を信じ題目を唱える功徳により、煩悩は般若の智慧と転じ、業は法の身としての清浄な相と転じ、苦は解脱の徳によって真楽と転じ、これら迷妄苦悩の境界より免れると示される。
さらに、境智冥合の深義では、末法出現の本因妙の教主日蓮大聖人は無作の応身・法身・報身の三身を具え給う、凡夫即極の無作三身であらせられる・我らが人法体一の御本尊に題目を唱え奉るとき、因果一如の妙因妙果の故に、我々の身が妙法信受の力用により日蓮大聖人と顕れる。また、本門の本尊は本地難思境智冥合、本有無作の当体蓮華の仏である。因果一如の故に、我らが妙法を信受する力用により、我らも本門の本尊、本門無作の当体蓮華仏と顕れる。これが文底の成道の相である。