8年前の今日、私は日蓮正宗の勧誡式(かんかいしき)を受けました。
もう、丸8年か・・・。
月日の経つのは早いものですね。
罪障消滅は厳しかったです。
それでも、無間地獄に堕ちるよりはマシかと。
罪障消滅とは、日蓮正宗ではどのように指導されているかについては、下記のリンクを参考にしてください。
御住職の法話第200号:罪障消滅について南条時光の信心【只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき来たらぬ福さいわいや有るべき】
創価学会でも顕正会でも、罪障消滅や転重軽受を教えているのですが、自分たちにとって都合のいいように解釈しています。
正法の法体たる戒壇の大御本尊様にお目通りする資格がないままでは、正法を受持したことにはならないのですが。。。
創価学会が垂れ流した誤った幸福観のせいで、仏法≒成功哲学みたいに誤解している人が多いですが、仏法ってのはそんな単純なものではないです。
たしかに、世間一般でいう幸せの条件みたいなものも、私個人に関して言えばこの8年で整いました。
しかし、それはあくまでもおまけです。
境界が低いままだと、おまけのほうにばかり目が行ってしまって、何年たっても餓鬼界の信心から成長しませんでした。
自分のためにならない願いは叶いません。その逆が魔の通力です。
話は変わりますが、本日7月3日といえば創価学会第二代会長が出獄してきた日です。
私は当時、この偶然の巡り合わせに「俺ってもしかして戸田城聖の生まれ変わりなのか?」などと、都合のいい霊感に打ち震えておりました。
大川隆法か!
それはともかくとして、日蓮正宗信徒として8年の寿命を賜ったことを大聖人様に感謝し、ヘタレの自分にできる限りの御奉公をしてまいりたいと思っております。
設い大鬼神のつける人なりとも日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばつしがたかるべしと存じ給うべし、月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。
我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はおそるる心なし、一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば眼をひさいで観念せよ、当時の人人のつくしへか・さされんずらむ、又ゆく人・又かしこに向える人人を我が身にひきあてよ、当時までは此の一門に此のなげきなし、彼等はげんはかくのごとし殺されば又地獄へゆくべし、我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、設えば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず。
彼のあつわらの愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ、彼等にはただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定とをもへ、ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、をそろししと・いわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ、此れはこまごまとかき候事はかくとしどし・月月・日日に申して候へどもなごへの尼せう房・のと房・三位房なんどのやうに候、をくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは・ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ。
三位房が事は大不思議の事ども候いしかども・とのばらのをもいには智慧ある者をそねませ給うかと・ぐちの人をもいなんと・をもいて物も申さで候いしが、はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ、なかなか・さんざんと・だにも申せしかば・たすかるへんもや候いなん、あまりにふしぎさに申さざりしなり、又かく申せばおこ人どもは死もうの事を仰せ候と申すべし、鏡のために申す又此の事は彼等の人人も内内は・おぢおそれ候らむと・おぼへ候ぞ。(聖人御難事)
信心は資本主義的な成功譚の実践を目指すものではありません。自分の宿業や罪障を見つめ、成仏を目指す修行なのです。
創価学会・顕正会の人は、一日も早く正宗寺院で勧誡式(かんかいしき)をお受けください。