孝養に三種あり

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『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
孝養に三種あり

 田 辺 道 紀 代 講

 お早うございます。本日も御住職様は海外へ行っておられまして、今日の午後二時四十四分の飛行機で成田の方へ着かれるわけでありますけれども、今頃はハワイを出たか出ないかというところでしょう。海外で十九日間ほど過ごしていらっしゃったわけですけれども、今日は、御住職の代わりといたしまして、真の供養とはなにかということで、お話をさせて頂きたいと思います。

 皆様もよく、お葬式や、お通夜の時や、その他にも色々な時に、供養という言葉を聞かれたと思います。

 その供養ということに関連いたしまして、親に対する孝養ということがありますが、そのことについて『十王讃歎抄』という御書の中に、

 「孝養に三種あり。衣食(えじき)を施すを下品(げほん)とし、父母の意に違はざるを中品(ちゅうぼん)とし、功徳(くどく)を回向(えこう)するを上品(じょうぼん)とす。存生の父母にだに尚功徳を回向するを上品とす。況や亡親に於いてをや」(新定六九)

とございまいす。すなわち仏法では、父母に対する孝養に三種あるということが説かれているわけであります。その三つを、上品、中品、下品という風に分けております。

 まず下品の孝養というものは何かというと、親に対して衣食住を見てあげるということ。親に対しての一番低い孝養は、衣食住を見てあげるということであります。

 次に中品といわれる二番目の孝養は、親の意志を貫いていくこと、親の意志を曲げることなく、親からこうして欲しい、ああして欲しいという風に言われたならば、その要望の通りに、そのことをしっかりと聞いていくということが、二番目の中品になるわけであります。

 そして最後の上品といわれるものは何かというと、親に対して功徳を回向してあげる。親に対して自分が信心によって積んだ功徳を回し向けて、施してあげるということが上品であるわけであります。

 お釈迦様の十大弟子の一人に神通力第一であった目連尊者の話は、皆さんもよくお聞きになっていることと思います。目連という人は、お母さんの青提女(しょうだいにょ)という人を救うために、自分の神通力を使って、そして親を地獄から救い出そうという風にしたわけであります。そのために、親に対して普通の孝養であり、下品であるところの、親に対して衣食住を施すということをやったのであります。目連は自分の持っている神通力を使って、地獄にいて飢え苦しんでいる親に対して、食べ物を送ってあげたのです。ところが、その食べ物をお母さんが食べようとすると、火となって燃え上がってしまったのです。目連は、それを見て、あわてて、又、神通力を使って水を送ったところが、その水は薪となってしまって、かえって親の身を焼いて苦しめてしまったということであります。そこで本当に母親を地獄の苦しみから救う方法はないものかと、仏様に伺ったところ、法華経を信じて供養すれば地獄から救うことができるのだということでありまして、そこで目連は法華経を信じ、法華経の功徳によって、お母さんを地獄から救い、成仏させることができたわけであります。

 これは世間一般に言われるような、単なる供養という言葉で捉えてみれば、ただ何宗でもよいから寺院に行って、お坊さんなりにお経をあげてもらって、親類縁者に御馳走をしてあげれば、本当の供養になるんだという風に思われているわけであります。ただ今現在、この世に生きていらっしゃる人達の中で、大多数の方々は、本当の仏法というものを知らないらないで、本当の供養とはどうしたらよいのかということに気付かないで、かえって亡くなった方を苦しめ、自分自身も苦しみ悩むという結果を招いているわけであります。

 それに対して皆さんは、この日蓮正宗の有難さというものを知っていて、この御本尊様から功徳を少しずつ受けて、その功徳を父母にも回向して、本当の意味の孝養を尽くすことができます。その上に又、自分自身の今までの弱かった命も改革して、振返ってみれば知らないうちに、自分自身が変わってきたなと思われるところが多々あると思うのです。

 ところがこの信心を知らない人というものは、地獄にいるが如く、本当にどうしてよいか分らない。普通に見てると苦しんでいるようには見えませんけれども、いざ大難、小難が来たときに、どうして乗越えて行けばよいのかと迷って、おろおろしてしまう。又、そういった難にぶつかった際に、逃げてしまう人が多々いらっしゃるわけです。逃げてしまっても、その自分自身の命の中から出てくる大難小難でありますので、ただ結果を一時的に先に引き延ばすに過ぎないのであって、もっと苦しまなければならないことになる。いやでも又、必ずそれにぶつかって行かなければならないわけであります。

 私達は凡人でありますから、必ずそういった苦労をしながら、それを乗越えて、自分自身が強く変わっていかなければならないわけであります。人生において、色々な形で、どんな苦しいことがあっても、やはり成長するためには、それに打ち勝っていかなければならないわけであります。 畑に蒔いた麦にしても、小さいうちに、寒いうちに、何度も何度も踏みつけて、そして、しっかりした収穫の多い良い麦を作るわけであります。人間も、そういった色々な苦労に逢わなければ、本当の人間として、又、逞しい命にしていくということはできないわけであります。

 大聖人様は『盂蘭盆御書』に、先ほども申しましたように、目連尊者が自分の母を地獄の苦しみから救った話を述べられているわけでありますけれども、その中で、

 「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや」(全一四二九)

ということを仰せられています。又、

 「目連が色身は父母の遺体なり。目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」(同   上)

ということを言われています。

 皆様は、今まで色々な方々を折伏して、そういった折伏の時に、様々な話をしてきたと思うのですが、又、亡くなった方を供養する時にも、そういう機会を捉えて、「私達自身が仏にならずして、どうして亡くなった人達を救ってあげることができるのか」ということを話してあげることも大切だと思います。又、現在この世に生活をしている人に対しても、色々な苦難にぶつかっているという人達を救ってあげるためには、やはり私達が仏になって、仏の忍辱の衣を身にまとい、仏の慈悲の上から、そういった方を救ってあげなければならないわけであります。先ほども言った回向にしても、親に対しての本当の孝養ということは、やはり自分自身が仏になって、成仏の境涯になって、そしてその功徳を回向してあげなければならない。

 自分が仏になるというのは、なかなか難しいことのようでありますけれども、それはどういうことかと言うと、やはり御本尊に向い、お題目を唱え、そして私達が手を合せている。そうして御本尊様と一体になっている姿が、私達の成仏の姿なのです。皆さんも十界互具ということを勉強されたことがあると思いますが、十界互具の仏様とは御本尊様のことであります。その御本尊様と私達が境智冥合している姿が、仏の境涯であるということを言われるわけであります。御本尊と境智冥合し、そして普段から、御本尊の仏智を頂き、その仏智によって人を救ってあげる。御本尊から頂戴した功徳を受けて、その功徳を回し向けてあげるということが、本当の回向になっていくわけでありますし、又これから先の折伏にもつながっていくわけであります。

 折伏をするに当たりまして、やはり色々な方がいらっしゃいますので、怒りっぽい人もいるでしょうし、又、話を「うん、うん」と聞いているような風をして、実は全然聞いてないという方もいらっしゃると思のです。ですけれども、そういう場合にも、自分自身が怒ってしまったり、又あきれてしまったり、そういう風になった時には、その人を救えないはずです。どんな時においても、やはり相手と同じ低い次元になって、腹を立ててしまっては駄目なのです。それでは、いくら話をしたって相手も納得しないし、又、ただ喧嘩になって、こちらのことも信用してついて来てくれない。ましてや、仏法のことなんか全然聞こうともしないという風になるわけであります。相手を救ってあげようというのであれば、ゆるぎない仏界の生命を出しきって、御本尊の功徳を相手に分け与えてあげるということをしてあげなければなりません。相手と同じような感情にとらわれて話をしても、やはり地獄界や餓鬼界や畜生界や修羅界のような命で話をしても、お互いに泥仕合をするだけですから、やはり、こちらは仏の境涯に立って、そういう方々を救っていって頂きたいと思う次第です。

 ついこの間、三日ぐらい前ですが、「折伏されて御本尊をここで受けたのだが、余りパッとしないから御本尊を返します」と言って、御本尊を返しに来た人がいました。私は、その人に対して、「御本尊の功徳について話を聞いて承知したのに、どうして御本尊を返さなければならないのか。始め入る動機が、どうであろうとも、やはり御本尊様の有難さを知っているのならば、その御本尊様をしっかりとお守りして、御本尊様に対して御報恩感謝をして行けば良いではないか」と言う風な話をしたわけです。ところが「いやそんな、はっきりした動機があったわけでもないから」と言う。実際に、その人は本当の功徳というものを知らない。又、身延で言うところの題目と私達の唱える題目は、全く同じものであるという風に思っているようでありました。

 私達が御本尊様を信じて唱える題目は、成仏の種を心に植え付けていくところの下種の題目であります。その題目は、人を救っていく。又、自分自身を救っていく。自分自身の命を変えてゆくところの題目であって、身延等で言っているような、ただ単なるお経の「妙法蓮華経方便品第二」とか「妙法蓮華経如来寿量品第十六」とか言う風に、経巻の文上に説かれている脱益(だっちゃく)の題目ではないわけであります。そういった意味からも、これからもまだまだ折伏されることと思いますけれども、今後とも自分自身がゆるぎない仏界の生命を本にして、仏の境涯に立って、折伏をしていっていただきたいと思うわけであります。

 今日は私といたしまして、四回目の講話になったわけです。色々と話をしましたけれども、御住職は、どんな日曜講話でも、折伏ということについて、お話をされているわけであります。今もそうでありますし、又来週も御住職の話がありますけれども、折伏ということを話されると思います。そこをよく聞いて、これからの自分自身の糧として受止めて、もっともっと、より一層頑張って頂きたいと思います。中には、僧侶は折伏をしないのかということを言われますけれど、とんでもありません。僧侶であろうと、やはり折伏をするわけでありまして、その折伏をした人と結婚して、今、御住職をしていらっしゃる方も沢山いらっしゃるわけです。私達も、なかなか、お寺を出るということはできませんけれとも、時間がある時には、そういった折りにふれ、人にふれて、少しずつでも話をし、そして折伏に励んでいるわけであります。そういうわけですから、皆さんも、どうか、より一層、頑張って頂きたいと思います。御静聴ありがとうございました。

(昭和六十三年十二月十八日)