お数珠について

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『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
お数珠について

 山 本 道 山 代 講

 皆さん、お早うございます。本日は、御住職が総本山の御会式に御出仕のため、お留守ですので、私が代わりに、お話を少々させていただきます。

 末寺においては、御会式は十月の下旬に奉修されておりますけれども、総本山においては、毎年十一月二十一日に奉修されております。これは何故かと申しますと、大聖人様御入滅の弘安五年の太陰暦の十月十三日は、現在使われております太陽暦に換算しますと、十一月二十一日に当たるわけであります。総本山においては、太陰暦に合わせた十一月二十一日に毎年奉修されておるということであります。ですから考えまするに、大聖人様御入滅の時は、季節も日々に大分、厳しさも増し、寒さが身にしみる頃であったと拝せられるわけであります。

 本日は、このお話とは全く関係ありませんけれども、お数珠のことについて、少々お話をさせていただきたいと思います。と言いますのは、よく受付において、男子部の方とか、女子部の方が来まして「今度、座談会で、お数珠のことについて発表するので少し教えて下さい」という質問がよくあります。そういうことからも、知っているようで知っていないということが結構あると思います。中にはもう全部知っているという方もいると思いますけれども、知っている方は、我慢して聞いて頂ければ結構だと思います。

 お手元にありますお数珠を見ながら話を聞いていただければ、よろしいと思います。忘れたという方はいないと思いますが、そういう方がいらっしゃるのでしたら、隣りの人に見せてもらって聞いて下さい。

 先ず、お数珠の起こりは、釈尊が波瑠璃王(はるり王)という方に「もし悩みを解決したいと思うならば、木の珠を百八つ連ね、それを常に身から離さずに持ち、仏法僧を念じ、修行していきなさい」(仏説木樓子経、大正蔵十七ー七二六A)と言ったことに始まるといわれております。

 つまり、私達衆生を仏法僧の三宝三宝とは、仏宝すなわち宗祖日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊様、僧宝は本門弘通の大導師第二祖白蓮阿闍梨日興上人のことであります)この三宝に引き合わせ、仏道修行を成し遂げさせる大切な法具であるということが、この数珠の意味なのであります。

 ではこの数珠の意義、又、それぞれの珠とか房がどのような意味を持っているかと申しますと、これは沢山の意味があります。全部言うのは不可能ですから、少し代表的な良く知っているものを挙げますけれども、先ず第一に、お数珠をひろげますと、人間の身体を表しているとよく言います。房が三本の方を上にして、二本の方を下にすると、三つのうち一つが頭になって、あとの二つが手になり、大きい輪が胴体になって、下の二本が足になるということであります。ですから御本尊様を信じて、信心している私達の姿を表しているということが言えます。

 第二に、左右の大きい珠が房の付け根にありますけれども、これは、父珠、母珠と言いまして、即ち妙と法、妙法を表しております。

 次に、この百八つの珠ですが、今数えられませんので数えるのは家に帰ってから数えていただければ結構だと思いますけれども、これは必ず百八つあるのです。これは衆生の煩悩の数を表していわけであります。ですから百八つの珠というのは煩悩を表している。

 又、その間に、よく見ていただきますと、小さい珠があります。これは四菩薩といいます。四菩薩というのは、常楽我浄を表しているわけであります。これを指に掛けて掌におさめて修行をすれば、煩悩を覆いかくして菩提を生じていく功徳があると言われております。

 次に、なびいている房ですけれども、白い玉が五つあります。その房は、この妙法の大御本尊様の本当の信心を全世界へなびかす、広宣流布の意味があるのです。又この玉は全部丸いですが、この丸いというのは一切を円満に具足する妙法の功徳を表しております。

 又この房の上をちょっと見て頂ければ、壷のような形をした玉があると思いますけれども、この珠の意味も功徳をおさめる壷であるというふうに言われております。

 次に、お数珠の掛け方ですが、これは当然皆さんご存じで間違っている方はいないと思いますが、左に房が二本、右が三本の方にすると、自然に御数珠が交差してひねられるわけですけれども、このお数珠をひねるという意味は、功徳をもらさないという意味があります。そういう一つ一つ色々な意味が、しっかりとあるということであります。

 又、注意しなくてはならないことは、お数珠は、もんではいけないということです。最近では少なくなりましたが、お数珠をさかんにもむ人がいらっしゃいます。これは全然

良いことはなくて、お数珠がすぐ痛みますし、又、他の方にも迷惑になります。一生懸命、唱題している中で、じゃらじゃら聞こえますと、音が気になって真剣に打ち込めないということもあるのです。そういうことからも、お数珠をもむというのは、良いことではないのです。合掌という意味からいっても、合掌、即ち掌を合わせると書きますけれど、やはり、静かに合掌、手を合わせて御本尊様を拝する姿が、本当の合掌の姿なのです。結局、数珠をもんでいる人というのは、年中手を動かしているわけですから、合掌の意味になっていないということが言えるわけであります。ですから多少もむのはいいですけれど、余りもむのは良くないですから、そういう癖のある方が、もしいらっしゃったら、直すように心がけていただきたいと思います。

 こういうことからも、お数珠の全体の形が功徳を表しているわけであります。又、妙法を表し、一念三千を表しているわけであります。

 『六卷抄』に「當家三衣抄」という御文がありますが、その中には、「数珠は仏の如くせよ云々」(聖九七一)と仰せのように、数珠は、御本尊様に準ずるくらいの扱いをしなくてはいけないわけであります。ですからお数珠を、ここは椅子ですが、畳ならば直に畳の上にじかに置いたり、又、子供達が遊んでいるのを放っておくというものではありませんから、本当に大切に取扱わなければならないと思います。そういう意味を知らないで、軽々に勤行、唱題する時に使うものだと思っているくらいではいけないのであります。又外出する時には、自分の身から離さずに、しっかりと持って外出するように心がけたいと思うのであります。

 大体、以上申し上げたような、御数珠の意義はあるわけですけれども、皆様は、今申し上げましたお数珠の意義をしっかりと心に銘記していただいて、これからの信心修行に邁進していただければ幸いと存じます。そういうことからも、一人一人が広宣流布のために、精進していっていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただきます。本日は、誠に御苦労様でございました。

(昭和六十三年十一月二十日)