五重玄の題目
『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
五重玄の題目
皆さん、お早うございます。皆様方は、このように朝夕、御本尊様のもとに、『法華経』の「方便品」、「寿量品」を読誦され、南無妙法蓮華経の正行の題目を唱えていらっしゃいます。南無妙法蓮華経と七字で書いたり、また七字で唱えますと、私達日蓮正宗の人間が唱える題目も、あるいは日蓮宗一般の僧侶や信徒が唱える題目も、立正佼成会や霊友会の人達が襷(たすき)をかけて唱える題目も、また天台宗の人達が唱える題目も、音声で聞いたり文字で顕わした時には一見同じように見えますから、所詮、題目はみんな同じだというふうに世間の人は考えるのでございます。
しかし、私達大聖人様の弟子檀那、日蓮正宗の信徒や僧俗が唱える題目は、一般の日蓮宗や、天台宗、霊友会、立正佼成会の人達の唱える題目とは根本的に違うということを、皆様方はしっかりと心に置いて、また世間の人達のそのような偏見を深く打ち破っていただきたいと思うのであります。
一般の人達が唱える題目というのは、これは、『妙法蓮華経』という羅什三蔵が訳されました法華経の首題の題目ます。「妙法蓮華経序品第一」とか、「妙法蓮華経方便品第二」とか、「妙法蓮華経譬喩品第三」というように、経典の始めに書かれているところの題目、首題の題目を唱えているにしか過ぎないのでございます。
ところが私達の唱える題目は、大聖人様が『観心本尊抄』に、
「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(全二五一)
と御指南遊ばされていらっしゃいます。また『三大秘法抄』には、
「末法に入て今日蓮が唱うる所の題目は前代に異り自行化他に亙りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり」(全一〇二二)
と、自らの自行と折伏化他の実践の題目であり、又、名体宗用教の五重玄の五字であるということを、ここでも仰せになっていらっしゃいます。この名・体・宗・用・教とはどういうことかと言いますと、南無妙法蓮華経と唱える名字、名目は、ただ単なる経巻の題目の名前、名目ではないということなのです。名目を表すと同時に、そこには妙体、すなわち南無妙法蓮華経の法体、仏法僧の三宝の実体、三大秘法の正体そのものが厳然として備わっておるということが妙体ということなのであります。それから妙宗、妙用、妙教といいまして、その功徳も、働きも、道理も備わり、そして一切の法華経、釈尊一代の仏教を通じての文・義・意、つまり文の上、義理の上、その肝要の法体を含めて、きちんと教相を判釈(はんじゃく)されまして、正邪を分別し、その極理、根本を開顕された上での題目であるということを、きちっと大聖人様はお示しになっていらっしゃるのであります。
従って、まず名体宗用教の五重玄の中の妙名、名目ということについて、大聖人様御自身は、久遠元初の法報応の三身の仏様として、『当体義抄』に、
「至理(しり)は名無し。聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之れ有り。之れを名けて妙法蓮華と為す」(全五一三)
と、きちっと、ここに名目を挙げていらっしゃるのであります。これを『法華経』の文をもって申し上げるならば、「神力品」における「如来の一切の所有(しょう)の法」(開結五八一)ということで、法報応の三身、久遠元初の仏様が、御自身の命の上に悟られ、そしてしっかりと所持されているところの妙法の名目、これが南無妙法蓮華経ということであります。
その次は妙用(みょうゆう)、つまり働きであります。この南無妙法蓮華経の御本尊様を、しっかりと受持し、題目を唱え、大聖人様と師弟一体となって信心を貫く、その上における功能(くのう)、功徳、そして現実の上に賜る即身成仏の境涯の一切を含めて、その功能を妙用、働きと申します。これを『法華経』の四句の要法の上から申しますと、「如来の一切の自在の神力」(同上)ということでございます。従って大聖人様は、同じ『当体義抄』に、
「聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果倶時に感得し給うが故に」(全五一三)
ということをおっしゃっていらっしゃいます。ですから、仏様御自身が、なにゆえに、この南無妙法蓮華経の法体を悟ることができたのか、そしてまたこれは仏様御一人が悟られる法ではなくて、これからまた末法万年の一切の人々を共に救うことのできる原理、働き、功徳というものをきちっと顕されたという所が妙の働き、妙用ということでございます。
その次の妙体とは、『当体義抄』に、
「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し」(同 上)
とあります。つまり、一念三千の法門、一切の人々を即身成仏させるところの道理、法門、そして仏法僧の三宝、また本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目としての三大秘法の実義が、この御本尊様の当体にきちっと備わっておるということが妙体であります。これは南無妙法蓮華経の法体そのものを顕していらっしゃるわけであります。『法華経』の「神力品」においては、「如来の一切の秘要(ひよう)の蔵(ぞう)」と申し、秘蔵の法体そのものが、この御本尊様に顕されておるということであります。
その次は妙宗(みょうしゅう)と申しまして、これは宗旨宗教として、この御本尊様をしっかりと受持して、南無妙法蓮華経の題目を貫くその信心の上に、どのように生まれ、どのような境涯に立ち、どのような人生を生き、どのような不幸な人であっても、どのような家庭を築く人であっても、どういう分野に進む人であっても、一人一人がこの信心の大道に生きる時、この受持の一行の中に、その一切の功徳が備わってくるということが、妙宗ということでございます。「神力品」の四句の要法の上から申すならば、「如来の一切の甚深(じんじん)の事(じ)」ということで、すべてがこの御本尊様の当体に、その信心の上に備わっておるということが、これが妙宗ということでございます。大聖人様は『当体義抄』に、
「之れを修行する者は仏因・仏果、同時に之れを得るなり」(同 上)
ということを説かれていらっしゃいます。つまり本因・本果、仏因・仏果の一切が、この御本尊様の当体に備わっておりますから、その御本尊様を受持し、大聖人様の御精神、大聖人様と同じ信心の上に立って、大聖人様が唱えられた同じ題目を私達が唱える時、師弟一体となって御本尊様と境智冥合する時に、私達の命も、いつしか六根清浄な生命(いのち)、仏身へと改革されていくというところに、妙宗としての意味が備わっているのであります。
そして最後は妙教(みょうきょう)、教えであります。私達は、大聖人様の御指南を通して、一代の仏法の綱格を、五重の相対の上に、きちっと、その教相の判釈(はんじゃく)をいたしまして、何が実教であり、何が爾前権教であり、何が外道の教えであるのか、その正邪の分別をきちっと立てなければいけません。そしてまた、その実教の法華経におきましても、文の上から、義理の上から、肝要の上から、また人を化導する上においては、下種と、熟益(じゅくやく)と、脱益(だっちゃく)の立て分けを、きちんと学んで、まことの妙教とは何かということを体得しなければいけません。つまり大聖人様の御指南を心に拝し、私達の唱える題目は、文・義・意の中には意の法華経として、広・略・要の中には、その肝要の法華経として、種・熟・脱の中には下種の題目として、きちっと大聖人様が仏法の奥義(おうぎ)を極められ、開顕された、その上において顕し、唱えられた題目なのだということであります。ですから、ただ単に経巻の題目を唱えているわけではない。その法体(ほったい)の上から、大聖人様が顕され、大聖人様が示され、大聖人様が下種結縁の題目を唱えられた、私達に結縁して下さった、下種をして下さった、その題目を私達は唱えておるということでございます。
従って我々の唱える題目と、所詮、日蓮宗や、天台宗や、あるいはまた立正佼成会等々の人々の唱える題目とは、天地の開きがある。隔たりがあるということをしっかりと心に置いて、私達の唱える題目の広大な意味と、その働きと、その功徳、その法門の一切を、分からないながらにも、根本的に違うということの確信を持って、御題目を唱えていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。
(昭和六十三年十一月十三日)