信仰は心の改革・命の蘇生

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『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
信仰は心の改革・命の蘇生

 皆さん、お早うございます。だんだん、朝晩が涼しさを越えて冷たくなって参りました。どうか健康にも留意しながら参詣をしていただきたいと存じます。

 皆さん方の身の回りの人の中に、皆さん方の信心をしておられる姿を見て、あるいは又、信心の話を聞かされた時に、ある種の偏見をもって、信仰をするとか信仰を持つとかいうような人は、自分自身の決断とか、自分の生活や自分の仕事や人生や、又いろんな悩みや苦しみに対して、自分自身が、決然として、てきぱきと処理ができない。対処ができない。心の弱い人間、あるいは移り気な人、物事のある目的や、ある道に対しまして、それをずっと永続的に貫くことができない。ともすると心の弱い意志の弱い人間がすることであって、意志の強い本当に自分自身の心のきちっと定まった人は、信仰なんかに頼らない。すがらないんだというようなことをおっしゃる人が、中にはいらっしゃると思うのであります。確かに人間は、その心の強弱、しっかりした人もあれば、又、とにかく人の支えがなければ、人のアドバイスがなければ、何事もできないというような人、そういう傾向性を持った人も、確かにございます。

 しかし果たして信仰を持つということ、宗教を持つという人は、みんな心が弱い人で、如何にも情けない人なのかというと、決してそうではありません。そんなことを言うのでしたら、では日蓮大聖人様は本当に心の弱い人だったか。そんなことを思う人は誰もおりません。あるいは、大聖人様の御在世にあって、南条時光さんであるとか、四条金吾さんであるとか、曾谷教信さん、あるいは富木常忍というような方々が、大聖人様の御書の御指南を通して拝する時に、そうした有力な檀越の方々一切が、心の弱い人に見えるかと言えば、決してそうではありません。七十、八十、九十の老齢を押して、遥か北国の佐渡から大聖人様の許へ、三度、四度、五度と足を運んだ阿仏房が、果たして心の弱い人であったか、そんなことは言えるものではありません。

 又、皆さん方の立場にとりましても、本当にこの信心をした意味、この信心をした発心の、その本当のところをよく考えて下さい。果たして心が弱いから、何かと、すがって、すがり抜いて、大聖人様の教えに帰依したのではないのであります。やはり自分自身に何等かの意味で心に期するものがあって入信したのです。又、大聖人様の御在世の弟子檀那の人達も、みな心が弱いから、大聖人様の御弟子になったのではなくて、大聖人様の御法義に触れて、その大聖人様の教えに感動し、又、大聖人様の御姿を目の当たりに拝して、その大聖人様の尊容に心打たれて信心をし、感動して信心をしたのであって、決して心が弱いから信心をしたのではないのであります。この日蓮正宗の信仰は、むしろ心の弱い人は、いつまで経っても決断がつかない。勇気がない。決然として正しい正法に立つことが、むしろできないのであります。

 皆さん方のように世間の人から何と言われようと、誰からどのように中傷されようとも、決然として、この大聖人様の正法正義に帰依する。正しいものを目指す。本物を目指すという、その強い一念心があったればこそ、この大聖人様の信心につくことができたはずなのでございます。従って、その信心の志の強い人こそが、むしろこの正法につくことができるのだという確信をもって、皆さん方は、そういう下らない偏見をもつ人に対し、きちっと破折をし、正宗の信仰を全うする者の誇りをもっていただきたいと思うのであります。

 又、人間の心の強弱ということも、確かに人間は、自分が今恵まれて順調な時には、誰だって心は強い。しかし一度逆境に立ちますと、なかなかそんな強がりをいうことはできません。誰だって、やはり弱いものでございます。ですから心が強いとか、心が弱いとかいうような問題ではないということを、よく知っていただきたいと思うのであります。

 例えば、最近たばこをやめる、自分の健康のために、自分が今まで何十年間吸って来たたばこをやめるという人がいらっしゃいます。それは、よく考えると意志が弱いから、たばこをやめるのか、意志が強いから、たばこをやめるのか、両方あるわけであります。もう自分はどうなってもいいんだと、生活も人生もどうなっても、あした死んでもかまわないから、自分は、たばこを吸うという人は、これもある意味では意志が強いのです。もう肺がんだって何だって自分は絶対怖くないと言って吸う人は、ある意味では意志が強い。反対に自分の身体のことを思い、健康のことを思うから、家族のことを思うから、たばこをやめるということになると、むしろそれは弱いことになる。ですから強いとか弱いとかいうことも、これもよく考えてみると、実はどっちがどうとも言えないのであります。

 又、一つの職業なら職業を、ずっと全うする人もあれば、永い人生の間に、三十回も四十回も職業を変えるという人だって中にはある。では職業を変える人が意志が弱いのかと言うと、又そうも言えません。自分の心が弱いから会社をやめなかったという場合もありますし、心が強いから会社をやめたという人もあるのでありまして、これは又、一概に心が強いから、弱いからという問題では実はない。むしろその人の生き様、その人の決断なのでありまして、それをその人の心根も知らないで、本質的なものも見ないで、外野が、外から、とやかく言うべき問題ではないということも言えるわけであります。

 いずれにいたしましても、心が強いとか弱いとかによって信心をする、しないということは決まるものではない。又、信仰の値打ちというものは、正法を貫く者の値打ちは、むしろ自分の心が弱いとするならば、その弱い心を強くするためにこそ、その信心の意味がある。そして又、汚れた心、驕慢な心、又、脆弱な心、その心を、清らかな、強い、すがすがしい、逞しい心へと改革していく。その蘇生させていくところにこそ、この信心を貫く、正法を行ずる者の値打ちがあるわけであります。

 大聖人様は、

 「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(全一〇八八)

ということを『兄弟抄』や、あるいは『曾谷入道殿御返事』(全一〇二五)という御書の中に御指南遊ばれています。自分の驕慢な心を自分の人生の指針として、自分の誇りとして生きたら、とんでもないことになってしまいます。あるいは自分の女々しい脆弱な心に振り回されていたんでは、結局、自分の人生も全部これは女々しいものになっていってしまうわけでございます。やはり自分の醜い心や、驕慢な心や、脆弱な心や、移り気な心や、そういうものに自分が振り回されていますと、そういうものに付き従っていると、結局いつまで経っても自分自身の改革ができないのであります。むしろ、その不浄な心を、脆弱な心を、驕慢な心を、全部、すがすがしい、強い一念心のところに導いていく。改革していく。蘇生させていくというところに、この信心を持つ一つの大きな目的があるわけであります。

 又、大聖人様は、

 「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり」(全九四七)

ということをおっしゃっておられます。心の蘇生が、それが命の蘇生となり、命の蘇生が、又、生活や仕事や人生の一切の蘇生につながっていくわけでございます。むしろ、そうした自分自身の今までの謗法に汚された不浄な心や不浄な命、生活、一切を、この妙法を根本にして、それを清らかな心に変え、福徳豊かな自分の生活を築き、人生の一切を改革し、蘇生させていくためにこそ、私達の大聖人様の弟子檀那としての信心の大道があるのだということを深く心に銘記して、むしろ世間のそういう心ない人の考えや、そういう偏見を打ち破っていっていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年十一月六日)