沙羅の四見

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
沙羅の四見

 皆さん、お早うございます。大聖人様の御指南の中に、「沙羅の四見」、あるいは「一水四見」というお言葉をもって、人間の社会の人々、みんなそれぞれの気持ちや考えの中にあって、同じ物を見、同じ場所を見、同じ所を訪問しても、みんなそれぞれの境涯や、その人の果報によって、見方、感じ方が様々だということを御指南遊ばされている御文がございます。

 一つは『船守弥三郎殿許御書』という中に、

 「迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ」(全一四四六)

という御文をもって、ちょうどインドの釈尊が入滅されたクシナガラの沙羅雙樹の林を、どのように感じるかということを、御指南遊ばされていらっしゃるのであります。ある人は、釈尊の入滅の所は全く普通の河川と変わりはない。草木が生い茂り、石ころや瓦礫が散らばって、ただ単なる普通の場所であったり、死人の、又ゴミの捨て場所のような汚い所だという風に感ずる人もございます。又ある人は、清浄な水が流れて、久遠以来とうとうと清浄な水が流れて、あたかもその所が金・銀・財宝に彩られたような清らかな国土だという風に感ずる人もございます。ある人は、釈尊自身がこの妙法不可思議な中道実相の成仏の理を、その道理を示された、まさに果報の尽きた、止まった所だという風に感ずる人もあるでしょうし、仏自身が正法を悟り、正法を行じ、涅槃をまさに現ぜられた仏国土だという風にとらえる人もあるでしょう。

 同じ場所を見、同じ所を訪ねて行っても、その人の境涯によって全く感じ方が違うわけであります。世間というものも、社会や世界というものも、みんなそれは、その人その人の受け取り方によって、感じ方によって様々であります。ある人は、同じ自分の家庭なら家庭というものも、それが争いの場であったり、あるいは苦しみの地獄のような場所であったり、又、皆さん方のその信心を通して、同じ条件の同じ屋根の下の家であったとしても、その所が全く安穏な、又、清らかな安らぎの場所であったり、ある時は又、争いの場所であったり、まさにケンカをしてつかみ合い、罵り合って、まさに地獄や修羅の世界にも又なるわけであります。今日の社会というものも、あるいは人生というものも、又、皆さん方の家庭というものも、結局その人の心次第、生き方次第、その人の果報や、その人の物の見方、感じ方によって種々様々に変わっていってしまうということなのでございます。

 同じようなことを、大聖人様は『曽谷入道殿御返事』という御書の中に、

 「この経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る(同じ水でも餓鬼の人は、それは欲望に燃える 海や血の流れのように感ずる。一般の普通の人は清浄の水と見る)。天人は甘露と見る(甘い尊い宝の水と見る)水は一なれども果報に随って別々なり」(全一〇二五)

という御指南を通して、この御本尊様というものを、どの様に拝するかということの大事を示されておられるのであります。私達は、大聖人様の建立し、私達に御下附して下さる御本尊様は、

 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(全七六〇)

と御指南のように、まさにそれは、大聖人様の御内証の法体そのものだと拝さなければなりません。一閻浮提第一の御本尊様であり、その御本尊には、又、十界の衆生を一人残らず、末法万年の人々を成仏の境涯へと導く一念三千の法門とその力、功徳、用き、仏因仏果の一切が具っている。大聖人様の仏力と法力、そのお悟りの全体が、きちっとこの五字の妙法の中におさまっている。まさにこれは、閻浮提第一の宝だという風に、私達は拝することができる。ですけれども世間の人は、単なる掛け軸にしか見えない。単なる訳のわからないお題目や、仏の名号、名前がそこに認めてある文字にしか見えないというのが普通の人の考え方でしょう。

 又、大聖人様の御姿、御一代の御化導というものも、私達は、大聖人様を末法の御本仏と、仏様と拝することができる。けれども身延日蓮宗の人達の目から見れば、どう見ても、大聖人様は単なる一菩薩にしか見えない。念仏や真言禅宗の人達から見ると、あたかも大聖人様は、敵(かたき)の様に見える。又、当時の極楽寺の良観や平左衛門の目から見ると、大聖人様は、まさに、悪侶の中の悪侶、これ以上の悪侶はいないというほどの、憎い憎い一僧侶にしか見えないでしょう。同じ大聖人様の御姿や御化導、あるいは大聖人様の建立される御本尊様であっても、本当に末法の人々を救済する根本的な、根源的な仏様であり、又、仏法の奥底を極めたところの最大の宝物だという風に拝せられる人と、そうでない人とは、結局、その人の境涯、その人の果報、その人の一念心によって様々に見えるわけであります。

 従ってこの大聖人様の御本尊様を、又、大聖人様を、その御境界にある御内証を、本当に尊い閻浮提第一の正法であり、閻浮提第一の智者であり、閻浮提第一の法華経の行者であり、末法万年の仏様であるという風に拝せられることの尊さ、又、拝することの必要性というものが、いかに大事であるかということを深く心に銘記して頂きたいと思うのであります。世間の人のような目で物を見、その世間の人のような信心のない人の心根によって、その人の頭を通して、言葉を通して大聖人様の仏法を判断してはならないのであります。どこまでも大聖人様の教えに正しく準拠して、信心の志、信心の眼を通して、大聖人様のその一言一句、その御指南を深く拝し、どこまでも正見、正しい見解に則って、この御本尊様を拝し、大聖人様を見、そして又、大聖人様の深いその御境界をしっかりと心に拝して、この信心を貫くことが大切なのであります。

 そうした「一水四見」、あるいは「一所四見」とも申します。あるいは「沙羅四見」という言葉を通して、同じものを見ても、われわれの見方と、世間の人の見方と、全く度しがたい人の見方というものは違うんだということを、しっかりと心に置いて、物事は何事も正しく全体観に立って、その真実の仏の指南に立って、きちっと物事を見、対処していかなければいけない。世間の人の、心ない人の悪見、その思いつきの、あるいは批判、中傷等々に絶対に紛動されてはいけない。ましてや、怨嫉の徒の言葉や見解に紛動されてはいけない。どこまでも御本尊にかえり、大聖人様にかえり、その正しい御指南に従って、この信心をどこまでも貫く、その信心の鉄則に、皆様方お一人おひとりが、絶対にこの生涯を通して徹していただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございきます。御苦労様でございました。

(昭和六十三年十月二日)