(5)真ではないが使わなければならない

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(5)真ではないが使わなければならない

 三諦論の話へ入ろうとしているのですが、そうしてみますと、三諦も・仮も空も中も・果ては<妙法>も、言語として捉えた側面から言うならば、全て施設した仮名である・という事になります。

 こうした言語を、論理学とか世俗諦の上から論じたら、いずれも仮名です。仏法においても<施設の名字>と言い切っております。その辺は虚妄の仮・という事になります。然し仏様がこれらを用いて教えている悟りの思想内容は、虚妄どころか大真実なのですから、それに連れて、用いられた一言一句は「皆是真実」 の実語です。

 ですから<妙法>という言語(名字)も、仮名であるその儘に実語な訳で、この時には虚妄性……言語としての虚妄性は限りなく後退して行き、遂には消え去っている訳です。

 そういう側面は、論面学で言う語用論と意味論との問題・とも言えそうです。全ての世俗諦も言語(仮名)も、自行化他に亘って必要なものばかりで、決して無駄が無い……。否定と排除の面を説かれたから・と言って、そこだけにしがみ付いては迷いであり・誤りになる。建立面を見ると、寧ろ無駄が無く必要な訳ですね。

 そうです。大体、一般の学問では、分野に従ってそれぞれ特有の用語が在ります。数学ならば加減乗除とかルートとか分数とか微積分とかいう風に。物理学ならばCGS単位とか素粒子とか……。

社会科学なら社会とか経済とか議員立法とかいう風に……。ですが仏法では事情が違っています。仏法には・仏法を独特に表現する・仏法だけに限られた・そして世法には見当らない・特殊な用語というものは無いのです。

 この意味で元来<仏法用語>というものは原理上在り得ないのです。言語・文字は全部世俗の言葉・仮名で、それしか無く、それらを組合わせて仏法の事態を表現するしか有りません。言葉は全部世俗の用語。表現される表現成体は・世俗とは違った仏法界の事態。だから難解で誤解されてしまう事にもなります。

 現在<仏法用語>と言って、特殊な用語が在る様に思っているのは、用語が古くなって、一般人には判らなくなっているからにすぎません。仏在世の弟子達はそうした悩みは特っていなかった筈です。日本の場合は経文が漢文で、いわば外国語だから取付き難い訳です。もう千年もしたら益々そうなります。外国へ進出したらやはりそうでしょう。

 世俗言語で世俗とは違う事態を表現する。仏法が世間で理解されない事や、初信の時代に「判らない」と言うのは、一つにはここにネック(障害)が有るのでしょう。

 ですからこのネックを打破する為に、竜樹は概念虚妄・分別虚妄を強調し、『止観』では<虚妄の仮>を強調致します。一般に仏教典では、名字は全て仮名・仮名……と注意を喚起する訳です。若しも名辞に従って世俗概念を作って執著してしまったら、仏法はもう仏法ではなくなってしまいます。

 けれども、それを使わないと何も出来ないでしょう。迷っている衆生へ仏法界の事態を伝達する方法は、この仮名を使う以外には無い訳です。ですから仮名でも、仏様にも凡夫にも必要欠くべからざるものになる訳です。

 この事は、考えてみれば大変な問題ですね。必要だが施設の仮名……。

 仮名は無益なり・と言って、禅宗の「不立文字」の様に、皆これを消す訳には行かないでしょう。仏様だってこれを消したら何も出来なかったのですから……。

 それで、化他に出る場合には、やはりこれは究極の真には非ず・で大いに不足しているのだけども、それを承知の上で使わなくてはいけない。そして使って人々に語り掛けて行く所が仮諦です。応身の振舞いです。言説です。教法です。この化儀を使わないと化法が成立たない訳です。

 真諦の仮諦が俗諦の意味合いを持って来る。それならばこれで全てか・と言うと、やはり不足性が有る訳ですから、それを補って、自分が心の中で、語り掛ける源泉として、自分の一念の中に握り締めている所が、言語道断・心行所滅の境智と言われております。不可思議・不可説・無分別の悟域です。

 言語の道……論理が断えている・心行所滅……概念操作が及ばない・というのはそこの所です。心行の所・というのは概念操作です。<所>は<舞台><局面><場>の事です。論理学ならば<命題界>の事です。世俗の「真である・真でない」では最早及ばない。だから世俗の真は非実非真・有に非ず無に非ず・空なり・と言う。空諦です。

 然して、悟った中味と化導で説く所、それとこれとは・仏様の己心においては全く一つのものである。空仮相等しい(違っていない)と言う。これが<中>・中諦です。一番基本的な線から行くと、ざっと以上の様になって来るのではないですか。

 これは取りも直さず三諦が智法である事を物語っております。境法ではないのです。これが空仮中三諦の基本的な意味合いです。だから姿・形は仮、心の性分は空、その基体は中、そう言われている言葉の中味はこれです。空仮中は事物側に在るのではありません。

 ところが往々にして逆にしてしまい、間違って、仮とは事物の姿・形、空とはその性質、中とは体なり・と言ったり聞いたりで、始めはその程度で判った積りになってしまいます。実際は判っておりません。約身・約智・約境・約観・約諦・約理・約行……皆一緒くたに考えています。

 始めの内は仲々判らないものです。苦労しないと判って来ません。「善く観ぜざる者は心に一切の相を具することを信ぜず」(『止観』)で、「心は性の方で・相は仮の方の筈だ、はてな?……」という事になってしまいます。

 何故そういう事になるか・と言うと、釈尊の仏教は末法の今の事行の法ではないから要らない・と勝手に全く排除してしまう事と関係が有りますね。

 そこです。初信の内は自分で調べないからです。御書にはちゃんと在る訳ですけれども、必要なポイントが要約された形でしか出て来ないでしょう。初信の時は・要するに言葉だけ覚えて、要約されているのか・これで精一杯拡がっているのか。その区別も付けないで丸暗記しているだけですから……。

 これはお経を読む心理と同じです。「爾時世尊……告舎利弗……」。さて文上の意味は・文底の意味は・と砕いて理解していません。理解はしていないけれども丸暗記はしています。御書に対してもそうです。唯信の宗旨ですから、それでも信が有って勝手な解釈を振回さなければ叶っている訳ですけれども……。

 知りもしないで好い可減な事を言う様ですと、もう唯信ではなくなります。初信は「旅客来り嘆いて曰く……」、暗記はしているけれども中味の理解はまだ出来ていない。段々年数が経つに連れて変って来る。単に理解するのではなく、体解から理解へ・という風に変って来るでしょう。仮令学生などが理解から入ってもそれはまだ嘘です。その理解がやはり体解を通ってからでないと本物にはなりません。

 

 

中論―縁起・空・中の思想 (上) (レグルス文庫 (158))

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中論―縁起・空・中の思想 (下) (レグルス文庫 (160))
 
中論―縁起・空・中の思想 (中) (レグルス文庫 (159))

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