(3)命題界の遣いで論理は分かれる

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(3)命題界の遣いで論理は分かれる

 論理について仏法で能く「言語道断・心行所滅」という事を言いますが、この心行所・行ずる所(しよ)というのは<舞台>とでも申しますか。現代論理学では<命題界>というのがこれに当ります。この<所>は<命題界>という事になります。

 ここでは論理がテーマですから、初めに末木剛博教授(東京大学)の『論理学概論』から一つの要点を抜き書きして示して置きたいと思います。(以下略出)

感覚世界―→個々の感覚・非人称命題―→知覚命題―→対象的知覚命題―→人称命題

人称命題……〇不定人称命題――演繹法―→形式科学(数学・論理学)

      ……〇特定人件命題

           ・一人称命題――自己反省(弁証法)――→自己認識(自覚)

           ・二人称命題――類推法―→他我認識―→社会科学・歴史学

           ・三人称命題――帰納法―→対象認識―→自然科学

それで、論理と学問との対応ですが、それは次の通りになって参ります。

不定人称 演繹法――数学・論理学(形式科学)

 三人称  帰納法――自然科学…………………合理

 二人称  類推法――社会科学・歴史学

 一人称  弁証法――自己認識(反省自覚)……非合理

前表は略出で不完全ですから、末木教授の本意から外れる点も在るか・とは思いますが、その点は教授に陳謝申し上げて置さたいと思います。

 当然の事ですが、この表のバックボーンを取崩してはいけません。つまり、人称命題界と使用論法との関係を取崩してはなりません。関係を入替えたら背理になり、論理が正しいものとして成立致しません。

 この表に照らせばすぐ判る事ですが、二人称命題である社会科学を弁証法で遣ろう・というマルクスは無茶です。論語読みの論語知らず・と同様、弁証法読みの弁証法知らず・と言うべきです。

 社会には不都合・不整合・不合理・反合理・有害な事などは山程在りますが、社会内のそれら全ての事象は<同時>に共存していますから別に矛盾はしていません。矛盾が無いのですから弁証法は当嵌まりません。弁証法唯物史観は完全に誤りです。

 社会現象には矛盾が無いので、矛盾を軸にした弁証法が妥当する余地が無いのですね。

 そうです。例えば夏に部屋の窓を全部開け放して冷房したら、これは矛盾している・と言うでしょう。然し能く見ると、窓を開け放して冷房を無効にしている事態と、冷房を有効にしようという意図とが・同時に共存していて<反合理>だ・という事です。

 非合理や反合理は矛盾とは全く違います。非合理は合理の外(そと)に在り・反合理・不合理は合理の枠内で背いている状態を指します。今の例の場合は反合理状態です。この場合、矛盾は事態側に在るのではありません。こういう<選択>手段を取って平気で居る<人間側>の<考え>の中に在る事です。

 こういう事で、自然や社会の側には<矛盾>は金輪際無いのですから、自然界や社会に<矛盾を基軸とする>弁証法が当嵌まる余地は全く有りません。社会はやはり類推法を適用すべき世界です。弁証法は<人間の行為>にしか適用出来ないのです。

 この事は<矛盾>と<弁証法>という事が明らかにされなければ・仲々理解を得られませんから、後に弁証法を論ずる部分で詳しく取上げて行きたい・と思いますが、何よりも先進資本主義社会にマルクスの歴史進行予言が当嵌まらなかった事が、弁証法的社会観の破綻を示しています。これは常に指摘される所です。哲学としても社会科学としても、唯物論も間違っておりますが、弁証法の方が尚悪く間違っております。

 マルクスは当時のヨーロッパ社会を弁証法的世界観で<後付(あとづ)け講釈>したから正しそうに見えただけです。只それだけの事なのです。

 それで、弁証法についてもう少し略引して見たい・と思います。

 「合理性の限界――自我はみずからを思量しえなくなる事によってみずからを知るのである。かく して自己矛盾を介して自我は合理性を離れた自己認識に達する。それは矛盾を媒介する思考である が故に弁証法である。しかしてそれは反合理的ではない。この弁証法は合理性(無矛盾性)と反合 理性(自己矛盾)とを総合するものである。……かくして一人称(自我)は合理性を駆使してしかも合理性を超える。論理の終局は非合理である」(以上初版本より)

 今示された事は非常に大事な点です。どうも言魂(ことだま)の幸(さきわ)う国の日本人は、論理学が通じない・本当の意味の論理が肌に合わない人種だ・と言われますが、人生意気に感じたり・腹を打割ったり・もののあはれを知ったり・腹芸に長じたり・清濁合わせ呑んだり、それはそれで結構ですが、論理が通じない所は不味いです。

“フィーリング民族” で終ってはならない・と思います。“フィーリング学派”だった陽明学派などは悲劇の主人公が多いです。そんなであってはならないでしょう。

 ここでまず問題になるのは人称世界という事です。人称世界の研究は、これだけで人文科学や哲学の一分科が出来上る程のものですから、人称世界・人称命題という語の使い方……語用を明らかにして置くべきだ・と思います。

 この対話で使って行く場合には、普通・学者が使っている語用とは少し違ったものになるかもしれません。論理学的な側面から、うんと簡明化した意味で用いたい・と思います。要するに<人が対する世界の取扱い方の区別>という点で用いたい・と思います。

一人称は<全ては自分の世界である。自己の周囲も自己が規定して把捉したものである、己心の世界である>という程度に用います。二人称は<我れと汝との世界。相依して交流し縁起している社会関係の世界>という意味に用い、三人称は<客観世界。見えた事態を突っ撥ねて自分の外部へ纏めて、それをその外・周辺から眺めている世界>という程度に用いたい・と思います。

 命題(プロポジション)を中心とした・人称と論理との関係では、不定人称命題は演繹法・一人称命題は弁証法・二人称命題は類推法・三人称は帰納法・という風になっていますが、例えば二人称世界には帰納法などを用いては背理になるのか・という様な誤解も生じるか・と思いますが……。

 要するにこの表での対置は<主柱>を示している訳です。一人称命題界の主柱は弁証法・二人称命題界の主柱は類推法・三人称命題界の主柱は帰納法・という事です。

 不定人称命題界は形式世界ですから演繹法ですが、人称が不定だ・という事は、その儘一人称にも二人称にも三人称にも使用される・という事になります。但し支柱として使用される訳で、決して主柱として使用されるのではありません。主柱と支柱との区別は大切です。

 主柱・支柱の関係をしっかり掴んでいれば好いのですね。

 もう少し詳しく言ってみると、一人称命題界では、その合理領域は演繹的帰納法つまりは帰納法を主柱とし・支柱として類推・演繹の二法が使用可能だが、その非合理領域には使用出来ない・という事になります。

 一人称非合理領域では、自我の自覚の場合には、弁証法が主柱で支柱無しです。この弁証法は結果的弁証法であって、図式弁証法ではありません。

 二人称世界には弁証法は全く使用出来ません。従ってこの命題界の主柱は類推法・支柱は帰納法演繹法・という事になります。

 三人称世界は帰納法が主柱・支柱は演繹法。支柱としても類推法は生物学等の極く限られた狭い範囲でしか使用出来ず、弁証法は全く使用不可能です。

 尚、仏法の場合では、一人称合理命題界(領域)の主柱は四句分別(原型)という反省論法で、支柱は応用型四句分別・弁証法帰納法・類推法・演繹法の五つとなります。これ(四句)はここでは取扱えませんから、章を改めて後述致します。

 人称世界のうち、一人称題界というのが最も難解です。「全てはこれ我れなり」と言われても、現実には山川草木の全ては自分の外部に勝手に存立しています。

 別に山川草木を自分の心が制作したとか生み出した・という事ではありません。山川草木は自分が生まれる前から在ったし、自分が死んだから・といって無くなるものでもありません。だが、山川草木に相い対した自分の<心の中の脈絡の世界>にどう浮かんで・どう作用して来るか・は全く己心の問題です。心外無別法……ここが一人称命題界になります。

 天台大師の「説己心中所行法門」が一念三千ですから、我が一念を直指して一念是れ三千・三千是れ一念で、これが一人称命題界の問題である事は、基本的にはすぐ判ります。事行の妙法・観行の妙法においては、自分(心)と世界とを分離し対置してはならない事も判ります。

 然し理解の問題として取扱う場合には「全ては是れ我れなり」という状況は、どう説明したら好いのか・という点には、相当な困難が有ります。

 自分の心をどんどん拡げて世界の全てを包み込んでしまった様な状態・と言っても好いし、世界の全てが自分の心の中に潜り込んで来てしまった状態・と言っても好いでしょう。智法だからこうなるのです。

 又は天から降った雨が大地に滲込む様に・自分の心が世界の全てへ滲込んでしまった状態・逆に言うと・世界が心の中へ融込んでしまった状態・とも言えます。これは仏法の基本的な大問題ですから、これから詳しく触れて行く事になります。

 してみますと、仏法の悟りは一人称世界にだけ有って、二人称・三人称の世界には無い訳ですね。従って教法としての仏法も、悟りの部分は常に一人称命題界のものとして在り、他の界には無い……

 そうです。反省――自覚の道筋は常に一人称世界のものです。「己心の外(ほか)に法無し」と言うのはここの所です。その上で宗教としての仏教は<我れと汝><能化と所化><仏と衆生>の二人称世界のものなのです。宗教は社会現象ですから二人称です。更に、仏教や仏法を客観する立場に置く仏教学は三人称世界のものになる訳です。

 総じて仏教の教法は、化他の為に、言い替えれば他の人へ伝達する為に、分別化・言説化したものですから、その為に二人称・三人称のものにはなっていても、元は一人称のものなのです。

 又、仏法は反省一人称だ・と言っても、その自分の悟りだけに閉籠もっては独覚になり、二乗不成仏と変らなくなります。そこで二人称の化他の局面へ再び立帰って菩薩道を行ずる訳です。