(2)概念虚妄・分別虚妄・文字は三世諸仏の気命

f:id:ekikyorongo:20181112185229j:plain

(2)概念虚妄・分別虚妄・文字は三世諸仏の気命

 ところで竜樹が、命題の真偽を問わず概念は皆虚妄だ・と取合わないのは、概念を引出す元になる主語事象は、諸支が縁起関係の上に成立っているのに、古典論理学にせよ現代論理学にせよ当時の因明にせよ、縁起抜きで、主語となる事象の<成立結果>だけが独存体として指示されており、更に、そこで出来た概念は皆・世俗の中だけでの判断だからでしょう。

 概念は皆・体験から生まれますが、然しそれは既に過去化し固型化し乾上ったモデル世界から抽象した<普遍思想>にすぎないから虚妄だ・と言うのです。つまり分析と総合とを経て再構成した仮構、この固型化した仮構の上に築いたもので、これは流動する現前当面の生活そのものに全的には当嵌りません。もう一つには、概念を使用する分別では対象の全体性及び仏界性は決して掴めません。

 こういう事で、世俗の分別は究極の真ではないから概念虚妄・分別虚妄と言います。世間虚仮もこの謂(いい)です。だが虚仮虚妄の枠内のものとして概念や命題の真偽を分別するのならば、当然・偽を捨てて真を支持するのはやぶさかではない訳です。

 分別虚妄は・本来それだけの線では・本当の意味にはならないのではありませんか。概念は抽象した普遍性のものである事と・概念では対象の全体性や十界性は掴めない事だけではまだ仏法にはなりません。

 本当はそうです。真意は、分別では得道に達する事が出来ない所を虚妄と言うのです。迷いである所を虚妄と言う訳です。分別では六道から出られないのです。分別で得道出来るものならば、大学を出て博士にでもなければ好い訳です。仏法無用です。

 虚妄に対する真実の方は、分別に対する無分別の方に在る……。

 そうです。仏様の経文というものは、理論も文章(演繹操作)も・その中で使用されている概念も・全て正しいのですが、それでも「此等(爾前)の経文は寿量品の……文より思い見ればあに大妄語にあらずや」と言う様に、爾前の無分別は未(いま)だ分別の域を出ない・とされて<分別虚妄>(妄語)と却けられています。この様に<得道>(成仏)>を基準として<分別虚妄・無分別真実>が主張されている訳です。

 その虚妄とか妄語とかの<妄>という言葉は、「妄(みだ)りに……」などと使われる事でも判る様に、「妄りがましい・道理に合わない・筋道が通らない・考えが無い・いつわり・実が無い・無謀」などという意味で使われます。つまり、真実に対して虚妄・実語に対して妄語、こういう語用です。

 正に対して邪・実に対して妄、正邪・実妄、仏法でもこの枠組で使っている訳です。分別というものは肯定(有)か否定(無)かの二者択一を行う所に特徴が有りますが、実相には有無の二者択一は通じないのです。例えば、刹那の一念心の中に三毒の惑心が備わっているのかいないのか・について、『止観』 ではこう言っています。

 「もし先より有(肯定)なりといわばなんぞたちまちに縁を待たん、もし本より無(否定)なりと いわば縁対するにすなわち応ず。有ならず無ならず、<定んで有なるはすなわち邪、定んで無なるはすなわち妄なり>。まさに知るべし、有にしてしかも有ならず、有ならずしてしかも有なり。」

実相は亦有非有・非有亦有だ・と言うのです。実相には有無(肯定否定)の二者択一は通じない事がこれで判ります。二者択一は通じない・という事は、分別は通じない・という事です。実相に対しては、正分別でも分別は虚妄なのです。無分別か<無分別の分別>でないと、実相に対しては真実ではないのです。<無分別の分別>ならば智法になります。

 分別も無分別も同じ人間の為(す)る事なのに、こうも<虚実>が分かれてしまうとは驚くべき事だ・と思います。

 一般に分別というものは「無明が法性に共(ぐう)じて一切の隔歴分別を出生す、故に世諦と名づく」(『止観』)と言う通り、無明の働きによって如実なる真実(法性)から隔て歴(へ)て出て来た・推理上の真実にすぎない世俗諦ですから、ここには成仏得道の真諦は無い訳です。

①無明の所作である事(無明覆障の産)

②主語存在(事象)の如実からは隔歴(きゃくりゃく)している事

③分々の推理真実にすぎない事

④重々の反省が加えられていない事

⑤以上により迷いに属する世俗諦でしかない事

この五つの事柄から得道にとっては虚妄にすぎない。ここを分別虚妄と示している訳です。成道を示し真諦の側から見返した場合には、どうしても分別虚妄という事になってしまう・という事です。迷対悟の迷=虚妄・という事です。

 何しろ得道の空仮中ともなれば、論理学の対象となり得る範囲は<仮>の枠内だけでして、空・中は西洋或いは現代の論理学でも古新因明でも取扱えません。四句分別(後述)意外では取扱えません。ここに・どうにもならぬ厄介さがあります。

 三諦論は古今の論理学論理では取扱えないのです。概念はその意味内容を一義化・一意化して初めて成り立ち得・機能出来るのですが、仏法ではその概念の発生源となる主語事象を判断(反省叙述)するのに空・仮・中と三通りに取扱いますので、概念の場合とは異なって、一義一意化と相容れない点が出て来ます。

 そこの所が縁起法の縁起法たる所以(ゆえん)でしょう。仏法は縁起法ですが、世間の諸説哲学や宗教など)や諸科学は、実体論か実体仮定の上に築かれた諸説諸科学です。『中論』などでの竜樹の説が理解されないのも、縁起論に対して実体論思考で立向かう所から起こっています。

 <縁起>は仏法の根幹です。「如来は是の(縁起中道)法を悟りて等正覚を成じ給う」(『雑阿含経』『華厳経』)と言う通り、縁起論と実体論との対比取捨が<内外相対>の一つの要(かなめ)です。縁起とは・事物事象(法)が成立っている寄合い・つまり<相依>の<関係>を示すものです。

 仏法は理法・事法・教法・行法、何一つとして縁起法でない法は在りません。権教・実数・文上・文底・皆・縁起法門です。そして縁起には平面的(客観的)な横型縁起法と反省的(主観的)な縦型縁起法とが在って、普通ここ(以上諸点)が理解されていないのです。

 論理学での<記号・命名>と仏法での<仮名・立名>とは同じ事でしょうが、関心の向け方は違っている様です。

 論理学では、名辞(記号)はその儘では肯定にも否定にも値いしない<無記>の立場から出発して、記号操作を正しくして得た概念は肯定され、不正操作から生じた概念は否定されます。この肯定された概念は又常識的に名辞化されて世間に通用します。こういう概念及び名辞は、論理学では肯定されるべきものと見ています。

 ところが仏法では、その様な正しい概念や名辞でも、更に否定……反省操作上の否定を加えるベきもの・と見ているし、もっと更には、言語道断と言って超え去るべきものと見ています。つまりは、究極においては否定されるべきものとして取扱っています。

 この意味で、仏法は論理学とは、名辞や概念に対する関心の持ち方が反対です。概念の取扱い方の違いにそれがはっきり現われております。

 名辞や概念について今挙げた面ではその通りです。そしてその上にもう一段在るのです。天台が言う様に「文字は三世諸仏の気命なり」というのが・もう一段高度な段階です。これが仏法での<肯定面>です。

 文字や概念が無いと誰にしても知慧の操作は出来ません。仏法は<知慧の学び>でして、知慧が働く・というのは、観察智と推理智と反省智との三通りの知慧が一緒に合体して働く事です。この三つは元々・一即三・三即一で、一でもなければ三でもない無分別知慧です。

 ここの所に仏法の知慧が在り、この未分合体調和智が渾然の儘働く状態を<般若>と申します。寧ろ分けないで直指した所が般若です。般若は世上の小憎らしい才智や秀才・天才の智能などとは訳が違うのです。

 この般若が自行と化他とに働く局面では、概念や名辞は尊重(肯定)されている訳です。つまり言語や文字については否定面と肯定面と二通り在るのです。

 分別虚妄や言語道断はその否定面での事。その否定面を能く心得ていないと危くて使いこなせない。この使いこなす面が肯定面という事になりますね。

 そうです。その肯定面を建立の仮とも諸仏の気命とも言います。言語・文字・概念の肯定面は建立の仮の全部ではないが一部分には入ります。言語・概念・文字(記号)は仏様の自行と化他とについての気命なのです。論理学論理は智法なので気命になります。

 ですから「仏は文字に依って衆生を度し給うなり、涅槃経に云く『願わくば諸(もろもろ)の衆生に悉く皆出世の文字を受持せしめん』像法決疑経に云く『文字に依るが故に衆生を度し菩提を得』若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」蓮盛抄)と言われております。

 肯否の一方を知ってもう一方を知らないと危険極まり無い……。

 <諸行無常>でもそうでしょう。諸行は一切変らないものは無い・と言う。これを聞いて、今は良いが何時かは悪くなってしまう、これが絶対的真理で脱られない・と悲観論の方だけに受取ったら一方を知って一方を知らない訳です。

 一切は変るのですから、今は悪いが何時かは良くなる……これも片面です。悲観面(否定面)も在れば楽観面(肯定面)も在る。両方兼備して完全な理解です。文字・言語・概念・論理・についても同じ事です 片方を強調してもう一方を無視し、捨てて顧みなければ仏法ではなくなります。

 これでは禅宗の「不立文字」説になり、「所詮・文字は月を指す指(ゆび)だ、月を得てのち指は何かせん」という妄語に発展してしまいます。生まれ育ってしまったら親は不要、習ってしまったら教師は無用、捨ててしまえ・という事になってしまいます。この風潮は今の世の中に現に在ります。これも二者択一の弊害の一つです。

 言語・文字について否定面・肯定面の両方を確認して、今ここでは追々その否定面を追及して行きたい・と思います。

 貴方が挙げた否定の局面は、分別虚妄の一語に要約される様に、これも大事で、それは、移り去って行く現象の流れをその儘体験で把捉しよう・という……一切の存在や知識を五蘊(ごうん)仮和合と見る縁起観だからそうなります。縁起観から言語の制約性に到達して行く必然性は後で述ベます。

 <五蘊>は連鎖して働く<色・受・想・行・識>の五つで、これは五仮和合聚の事ですが、詳しい話は後として、この蘊は陰とも漢訳されています。『止観』 では五陰の方を使っております

 蘊(うん)は、非一(多数)・総略一衆・荷重・分段・などと色々に訳されていますが、要するに、和合聚(集)、つまり、仮りに和合した集まり・積み集められた事柄・何事かの知られた担い手・こんな程度で好いでしょう。

 簡単に言えば蘊=陰=集(縁起集合)で充分意味が通じます。五蘊は縦型の無尽(無窮)縁起連鎖でして、その一回転分を切取って・事象(法)と識智(これも法)との<関係の型>を示した境智一体の智法です。詳しくは後程申し上げます。

 仮名という問題は小乗の『ミリンダ王問経』(『邦先比丘経』)にも在ります。ギリシャ人のミリンダ王がナーガセーナ(邦先比丘)長老に対して「貴方は誰だ」と問う、長老は「ナーガセーナです」と答える。王は「ナーガセーナとは一体何だ」と問う、長老は「仮名です」と答える。

 王が「仮名とはどういう事か」と問う。長老は「仮りに五蘊に依って施設された実体無きものです」と答える。王が「五蘊とは一体どういう事だ」と問う、長老は五蘊の各支を車の部品に譬(たと)え・五蘊を車の全体に譬えて・各支にも車にも実体が無い事を説き明かす。

 こうやって問答を重ねて・縁起観から析空観が説かれ、五蘊仮和合の無実体なるナーガセーナが承認され、因縁和合の仮名説が認められ、王は仏法に帰依する・という事になります。

 この、仮名を立てる<立名>という事が、後世に天台の五重玄義の<名玄義>として重要な問題になる訳ですが、それは後回しとして、ここでは仮和合なる体を指すサイン(記号)としての<仮名>に注目して置きましょう。

 仮名の指す所(対象)全て仮和合の現象体ばかりで、それに本質や実体は全く無い。現象の他に現象のその奥へ実在(実体と本質)を立てるのは間違いである。それが実際世界の真相だ・と指摘して置きましょう。体験世界や客観世界には現象以外は全く在りません。本質や実体は思考の誤りから生じた虚偽概念だったのです。

 五蘊ならざる存在は無く知識も無く、存在や知識として仮和合ならざるは無く・仮和合ならざる五蘊は無く、因縁仮和合ならざる知識は無い。縁起を素朴に言えば「此れ有るが故に彼れ有り、彼れ起こるが故に此れ起こる」「未だ且って一法も因縁より生ぜざるは非ず」「故に一切法・空ならざるは無し」 (『中論』取意)です。

 

 

中論―縁起・空・中の思想 (上) (レグルス文庫 (158))

中論―縁起・空・中の思想 (上) (レグルス文庫 (158))