Ⅰ 仏法と論理学 1世法と仏法と空仮中の三諦 (1)仮名(名辞)と存在との自動対応はナンセンス

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Ⅰ 仏法と論理学

1世法と仏法と空仮中の三諦

(1)仮名(名辞)と存在との自動対応はナンセンス

<仏法と論理学>と言うと、古来・仏教と関わりが深かった<因明>(いんみょう)の事を思浮かべますが、これとは別に全く新しい開拓を試みたい・と思います。

 教法が在る所・論法や論理は必ず付いて回りますから、論理学的な側面は非常に重要です。この事は本章と次章とを見て貰えば判る・と思います。特に、論法の側面が解らないと、空仮中も一念三千も全く判らなくなります。

 そこをこの章で論じたい・と思います。

 昔・中観・唯識両派は印度大乗仏教の二大潮流を成しておりました。その中観派の祖・竜樹は中国や日本でも八宗の祖と崇められております。この竜樹は世間で通用している概念というものは、丸きり信用しなかったそうです。

 経文を見ても仮名(けみょう)仮名と出ていて、世間で通用している物事の名前は皆・仮りの名前だ・として取扱っております。これは今の論理学で言う「名辞は記号(サイン)だ」という事に通じている・様に思います。

 <仮名>は<世俗仮設の名字>という事だそうです。竜樹の場合は既成の概念は全く信用しない・のだそうです。未来に出来る概念についても同様でしょう。現実の如実なる物事と概念との間の距離をはっきり自覚しています。概念は記号で換置翻訳するからです。

 現実の事象は無常で常に変って行って留まりません。それなりの概念の方は事象を仮りに<停止状態>にした所から作り出します。それで如実事象と概念との間には必ず距離が有って、全的には合一(合致)しない訳です。イカとスルメの差が有ります。

 昔、アリストテレスの場合は「主語になる名辞が有ればそれに対応する個物が必ず在る」といぅ考えで、これを第一実体と称し、述語の中でも集合名詞は主語の位置にも来れるから、集合名詞が指す<類・種>を普遍者と言ってこれを第二実体と称し、アイ・ラヴ・ユーの様な<関係の論理>の主語は<偶然的な存在>と称して、彼の論理学では取扱えなかったそうです。

 そして「主語名辞を通じてそれに対応する実体を知る事が本質を把握するという事だ」と言っていた・そうです。この事は沢田允茂教授(慶応大学)の本(『現代論理学入門』)に出ていました。

 これは現実の<如実事象>と<主語・述語・概念>との間の距離に気付いていないか、又は無視しているか・のどちらかな訳です。従って、事態と概念とは全的には合一しない事が軽視されております。つまり、概念は抽象したモデル世界での事象とは合致しますが、生々しいこの現実とは全的には合致せず、普通は概念の方に不足している欠減分が生じます。

 ところが、場合によっては、逆に概念の方に余分を生じてしまう事も有ります。戦時中に流行った<悠久の大義>という概念などは余り過ぎの適例でしょう。

 概念の不足分の方を取上げて強調したのは十八・九世紀の弁証法でした。当時弁証法が持(も)てたのは、一つにはここに理由が有った様です。

 逆に概念の余分性の方に注意したのは中世のオッカムで、彼は 「命題の中へ余計な名辞を持込むな」と主張しました。プラトンの”髭(ひげ)”(普遍を指す)を剃落とす<オッカムのカミソリ>というのがこれです。

 概念や命題には大きい効用が有ります。即ち正しく論理を展開する推理・推論は、自然や世の中の事態を明白にします。こうして合理主義は諸科学と技術との発達を導いて来ました。合理主義の白々しさや人間疎外が言われますが、これは取扱う人や社会の側の問題であって、合理性自体の罪ではありません。

 元来無分別な存在を分別して命題を立てる事は、対象への人間の視野を<狭くする>事です。局限することによって、狭くした枠内において・という条件下でだけ、対象の事態を明らかにする事です。ここに合理の利点が生じて、広く応用が効く事になります。

 その一方で、総体の調和を壊してしまう欠点と・視野を狭くした欠点も生じます。狭ばめた為に解明されない分野が残り、対象が提供すべき対人効用が切捨てられます。それを又別の命題で追求しても事情は同じです。全体性は掴めません。調和も壊れてしまいます。ここに分別の虚妄性が生じます。

 哲学及び論理学の問題としての<記号>(サイン)と仏法で言う<仮名>(けみょう)とは、ほぼ同じ・と受取って好い・と思います。記号は人間の思考作用の根本に関わっていて大事なものです。記号の役割は、知りたい対象を、対象とは別物である記号という代理者によって知る・という所に在ります。<間接>に知る事になります。

 我々が・対象を知りたい・と思う時には、その対象が<何であるか>を把握したい・という事よりも、その対象と自分との直接の関わりの中で、自分へ迫って来る対象の作用の、その働きの<意味>を知りたい・という事の方が多いのではありませんか。

 この場合、対象から直接に<作用の意味>を掴み取る事は出来ませんが、記号を使えば、つまり記号を操作すれば<意味>は判ります。この為に、記号は対象の代理者ですが、同時に<意味の担い手>でもあります。ですから仏法でも<立名>(りゅうみょう)と言って仮名を大事にしています。

 記号が意味の担い手だ・という事は、諸記号はバラバラ勝手に存立して気儘に働くものではなく、集団(文脈)の中で関連し合ってだけ生きて働ける事を示しています。

 諸記号は集団つまり命題文の中の相互の連関(関わり)の内だけで有効なのだ・という事は、当然、諸記号間には約束されたルール(規則)が敷かれている事を示します。この約束された諸ルールが論理学を形成するのは全く自然の成行きです。

 そして論理学の諸法則が発見され確立されるのは当然で、人々はこれを破る訳には行きません。早い話、5×5=24とは誰も認めません。論理が大事だ・というのは、認識でも対話でも・それが成立するかしないか・の鍵を握っているからでしょう。

 その論理学のルールが<同一律矛盾律排中律>の三つですが、これについての話は、もっと先へ進んでからでないと出来ませんから後へ回したい・と思います。

 昔の中国でも<正名>(せいめい)と言って「名を正せ」と言っていた・そうです。概念を正しくせよ・というのが本来の意味です。インドでは<因明>という論理学が在り、ギリシャにはアリストテレス以来の論理学が在り、これを土台に合理主義が発展して来ます。

 そうした<正名・因明・論理学>はいずれも世俗の学問な訳ですが、仏法としても、修行について自分が物事を考えたり(自行)人に仏法の話をしたり(化他)するについて、重要な役割を担う訳です。そして仏法には更に、反省自覚の為の論法として<四句分別>というのが在りますが、これは一括して次章で論ずる事に致します。

 この四句分別というのは<論法>であって<論理学論理>ではありませんが、論理と論法とは親類筋に当りますから、続けて理解して行かないと会得が難しい・と思います。仏典には沢山出て来るので非常に重要です。

 アリストテレスの論理学は・長い間・西欧の思想をリードして来ましたが、今世紀へ入ると<古典論理学>として扱われる様になりました。沢田教授の本の話へ戻りますが、三段論法を展開した古典的な<名辞論理学>には間違いが二つ在る訳です。

 その一つは、主語名辞が有ればそれに対応する存在が世の中に<必ず在る>という点です。本当は主語名辞が有っても対応存在が<必ず在るとは限らない>訳です。一例ですが、無とは何ぞや・幽霊とは何ぞや・と言っても、そういう主語事象は世の中に存在しません。

 その二は、時と場所場合に応じて述語的な存在は替っても・それ自身は変らない真の主語存在……つまり第一実体、第二実体が在る・という点です。実際はそういう<実体>は在りませんでした。

 そういう訳で、古典では、現象は<偶然的存在>と言って名辞論理学の対象から外(はず)されてしまいました。個物を第一実体とするのは、結果としてそこに見られる個物・だけを見て、個物がどうして出来ているのか・という縁起構造を見逃しているからでしょう。形而上学存在論からそうなってしまいました。

 ところが本当は、個物も普遍者(類・種)も現象であって実体ではない。これに連れて本質というものも無い。主語は述語で叙述されて初めて概念内容が決まるもの。つまり概念は命題を通じて初めて決まるもので、名辞と自然存在との自動対応はナンセンス・という事になりました。こうして出来たのが現代の述語論理・記号論理学です。