3 インドの伝統――<分けない>流儀 (5)実体か非実体か・正論因果――内外相対という事

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(5)実体か非実体か・正論因果――内外相対という事

 ここでは余り専門分野には立入らないで基本線を追って行きましょう。仏法では戒定慧の三学・信行学の三義等々・そのどれも反省―自覚以外には無く、学一つ取ってみても、知る為の学ではなくて、反省―自覚の資として学が成立っている訳ですね。

 一口で言えば、凡身を反省して仏身を目指し自覚する・九界を反省して仏界を自覚する、これが目指す所です。この反省の為には、厳正な意味での批判精神を堅持していなければなりません。批判精神が無くては反省出来ないし従って自覚も出来ません。

 自他の正邪善悪を見極めなければなりません。社会生活では・他への批判・己れへの批判・両方必要です。こうして批判精神は内へも外へも・自へも他へも向けられますが、これは当然な事なのですね。

 早い話、昔からの第一原理論争にせよ・科学の発展にせよ・空仮中の悟りにせよ、皆、批判精神から生まれて来たもので、信と批判精神とは・相依って互いに成立つものです。「彼れ無くば此れ無く此れ無くば彼れ無し」です。片方の独存は不可能です。

 「批判精神有るが故に信起こり・批判精神無くば信も無し」という縁起関係下に在りますから、信を強調する事がこの大切な批判精神の封殺へ向けられるならそれは邪道です。盲従・盲信は信とは言えません。有信の人は須らく反批判を去って正批判に生きるべきです。無解有信から有解有信へ・です。

 この批判精神はデカルトでは方法懐疑として述べられています。

 天台では<疑いの三義>(『止観』)として自・師・法の三を挙げ、「自身に於いては決して疑うべからず……自分は迚も仏道修行には耐えられないだろう・などと自分の資質を疑うな。師匠と法とは大いに疑って正邪を明らめてから信ぜよ。正法正師決定せばその時に三疑は永く棄つべし」(『弘決』取意)と言われております。

 「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)と言いますが、疑う余地が全く無くなる迄・批判精神を働かせないと無疑にはなれません。疑いが悉く局き果てたのが<無疑>です。この無疑が<信>です。

 不疑……疑わない・と無疑……最早毛筋程も疑いは無い・とは天地雲泥の相違です。無理して疑うまいと努めても、解っていなければ疑いは必ず付いて回ります。ですからこういう人はもやもやしています。<不疑>からは金輪際<無疑>には到達出来ません。

 信とは又・以信代慧で仏界の無上無分別大慧に直結したものです。信からこの大知慧への行程が「勇猛精進」なのですが、『止観捜要記』に「敢(いさん)で為すを勇と言い、智を竭(つく)すを猛と言う、無雑の故に精、無間の故に進」と教えています。

 それについて、勇猛は信力、精進は行力で、信力・行力が仏力・法力を顕現するのだ・と教えられております。

 この「智を竭す」についてですが、この智には批判精神(洞察智・推理智)と反省智との二つが在ります。釈尊が・外道の法は誤っている・と排して強硬に内外相対を言立てたのはこの<批判智>の力に由ります。

 一迷先達して独自開悟したのは<反省智>に由った訳です。従って我々も一生涯この批判精神(批判智)と反省智とを堅持して行かないと、勇猛精進という信行は成立致しません。実践躬行にはなりません。

 我々は内外から色々な・学説・主義・諸説・勧進・に当面します。批判智・批判精神が衰弱してしまっては到底やって行かれません。反省智が無いと・毎日の自分の行業も無反省の儘生活が流されて行ってしまいます。反省の習慣が身に着いていないと、自分が今六道しかやっていない・という事に気付く事さえ出来ません。

 只今の六道に気付いて仏界を求めるのが仏道としての反省自覚ですから、反省智・反省習慣が無い人の信心は一向に進まない・と思います。現に実例を見ているとそうです。大荘厳懺悔も成立ちません。過去遠々劫現在漫々の罪障消滅の祈りも表辺(うわべ)の形式だけになってしまいます。

 批判精神・批判智を持合わせなければこの対話も不可能になります。最早・信も消滅してしまいます。

 信とは以上の様なものですから、信は慧の源(みなもと)で大切です。第一原理について、我々は・仏と法とを第一原理にせよ・と言いましたが、対境側はそうでも、境智而二不二ですから、智の側においては、以信代慧で<信>の一字一行が隠れたる第一原理として働いている・と言うべきでしょう。

 仏と法と智と信とは、万人の己心においては、一体不離で分けられません。

 もう一度締括って申しますと、批判精神を発揮して、世の中一切は<実体・本質在り>が正しいか<無実体・本質無し>が正しいか……これを見極めるべきです。見極めれば・どちらを取って信ずべきか・が明らかになります。これが<内外相対>(ないげそうたい)という事です。

 この内外相対を厳密に言えば<仮令・無実体説(縁起説)に立つとしても、その上に立って行業因果を正しく説くか否か>という事になります。行業因果は反省自覚の基盤だからです。因位の修行者に取って仏果成就の事理法だからです。

 内道の仏法が論法上でも<反省自覚法>であるのに対して、現在・インド六派哲学・と言われている六師外道などの外教外学は<推理推論法>である事を特徴として居りますね。推理推論つまり分別・の領域から一歩も脱け出せないから実体と本質――偽分別・邪分別・妄分別――が出て参ります。これが実有論・著有論でして<分別虚妄>以前の<虚妄分別>と排される所のものです。

 「定んで有なるは邪なり」(『止観』)です。こうして、内外相対の第一の歯止めは<推理推論か反省自覚か、実体(有我)本質(自性)か無実体(縁起体)無本質(無自性)か>です。その上に、無実体説であれば何でも好い・という訳には参りませんから、<行業因果を正しく説くか否か>という第二の歯止めを構えている訳ですが、ここではこの程度で好いでしょう。

 或る先生は「この対話の基調を明らかにすべきである」と言って居られました。

 この対話の基調は天台に置きたい・と思います。文底下種の大法については、何も私が今更述べなければならない必要も必然性も有りませんし、種脱法門では却って内外相対を論じられません。

<内外>を論ずるには権迹の線でしか遣り難(にく)いのです。仏法へ入って参りますと、内外勝劣(内勝外劣・内正外邪・以下同)大小勝劣・権実勝劣・本迹勝劣・種脱勝劣――以上<五重の勝劣>が明らかになります。

 この勝劣が<一致>になっては大変な事になります。内外一致(ないげいっち)・大小一致・権実一致・本迹一致・種脱一致……これでは・宗教は何でも同じ・という俗論になってしまいます。内外一致になれば五重相対は種脱一致迄一貫してしまう事にならざるを得ません。正邪は破棄されます。

 そうです。それなのに・仏教界でも仏教学界でも・本迹一致よりも尚悪い内外一致の大悪義が大手を振って罷り通っているのは誠に驚くべき事です。これは一つには仏法を対象化・境法化して存在論を展開する――これでは形而上学になってしまう――からです。客観の視点から解釈するからです。次章からこの点を明らかにして仏法の本義を顕揚して参りたい・と思う次第です。

 仏法は仮令どんな論を展開するにせよ・反省自覚の立場で・常に智法の窓口から論ずるのだ・という所を忘れてはなりませんね。科学的解釈・哲学的解釈を許さない……。それをやってしまうと内外一致になってしまいます。

 そうです。その事が大事なのです。本書は論の目標が内外相対ですから・天台の路線・を基調にして参ります。それには、論理学的視野から始めて形而上学批判を以って終えたい・と思います。

 次章からいよいよ本論へ入りますので宜しくお願い致します。仏法は智法である事が会得して頂けるならば幸いだ・と思います。

 

中論―縁起・空・中の思想 (上) (レグルス文庫 (158))

中論―縁起・空・中の思想 (上) (レグルス文庫 (158))

 
中論―縁起・空・中の思想 (下) (レグルス文庫 (160))
 
中論―縁起・空・中の思想 (中) (レグルス文庫 (159))

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