3 インドの伝統――<分けない>流儀 (4)信と批判精神――不疑と無疑

f:id:ekikyorongo:20181112185229j:plain

(4)信と批判精神――不疑と無疑

 理法さえも事法と縁起している・となりますと、事法も理法も……つまりは内外一切法皆これ非実体法(無本質法)という事になります。実体か非実体か、実はこれが古今東西の大問題です。解決には批判精神が是非共必要です。

 その<批判精神>が<信>ずべき対象を確保して呉れる訳です。<不疑>であってはなりません。不疑は精神衛生に最も悪いのです。疑いを駆使し・疑いを尽くして初めて<無疑=信>に到達出来るのです。

 この対話の目標は<実体論が正しいか非実体論が正しいか>を明らかにしよう・という所に有りますから、己むを得ない場合の他は、仏法の極意に立入る事は避けたい・と思います。仏教は・非合理な侭・非常に合理的な宗教であって、世間の拝み屋の道具・祈祷師の装い・などにすべきものではない事が判れば好い・と思います。非合理即不合理ではない訳です。

 仏教は合理性に富む宗教だ・と言うと、すぐ「仏教は一番料学的な宗教だ」という言い方が出て来ます。これは大変な間違いでして、智法を存在論にしてしまいますね。

 仏教に限らず・科学的な宗教・など原理上有得ない事です。科学は分析・総合を手段とした部分学であり三人称世界のものです。仏教でも他の宗教でもこれは一・二人称世界の実践法であって非合理領域のものです。つまり信仰は一人称・宗教は二人称です。非合理世界のものだが合理性に貫かれている……それが仏教です。

 仏教は非実体論に立つ宗教だ・という事ですが、現象の奥に実体が在りはしないか・と疑問(関心・探求心)を持つのは、これも人智の進歩の一つで自由な事ですが、この事と・本当に実体が在るのか無いのか・という事とは全く違った問題です。とにかく縁起法という出発点は明らかになりました。

 縁起法が思考の出発点である事は当然ですが、この縁起法は、仏道修行の思惟の出発点から重々の反省を経て・自覚の終点迄貫き通される訳です。仏法ばかりではなく・本当は諸哲学・世間の思考についても貫さ通されるべきものなのです。

 仏法では・華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃・迹門・本門文上・文底・は勿論・三世諸仏の一切の経々全てが縁起法門・縁起中道法門でして、縁起法門・実相法門と区別して言う場合の実相法門も、縁起法門の中の一歩踏込んだ法門・という事にすぎません。それについては本論へ入ってから詳しく話合いましょう。

 縁起法に立つ仏法においては、一切諸苦の根元は当人の無明(法に対する無知)に在る・と言います。だから無知無明さえ克服出来れば大筋の諸苦は消え去る・と教えています。小乗教の十二支縁起などはその筋道を明らかにした好例だ・と思います。大乗でも無明と法性とを待置して解脱を教え・諸苦からの解放を目指している点では変りません。

 小乗でも大乗でも行着く目標目的は同じです。そこを成道・得道・成仏・悟り・……・何と言っても同じ事です。その諸苦の源である無知の内容を追ってみると、衆縁の焦点である縁起法を<有りの儘>に見ていない・という<無知>に在る訳です。

 諸行無常と言って、世の中の一切事象は無常(アニトゥヤ)で変化しています。常無しが真相でして変化しています。変化しない物事は無い。これは、実体が何処にも全く無いから変化しているのでありまして、若しも実体が在るならば・変らない芯・みたいなものが在る筈です。ところがそんな”芯”は一例も見当りません。

  それでは<どう変るのか>と言えば、現象同士の相互作用(相依)の因縁関係で果を生じている。生じた果も又変って行く。変れば元通りではないから元の局面は「是生滅法」(是れ生じては滅するの法なり) といって無くなってしまう。

 元の局面は無くなって新局面になっても・まだその法(現象)の自己同一は保たれている。この自己同一は実体でも本質でもないから「諸行無常是生滅法」以外は無い訳です。ですから一切事象が存続する様(さま)は<不一不異>だ・と言います。生滅するから不一で・自己同一は続くから不異です。

 今のそこの所が一般には仲々理解されていません。いずれ後の章で詳しく論じ合いたい・と思います。「不一不異」は『大般若経』の中に説かれた問題で、空によって中道を標示している重要な課題です。

 それなのに、変化する現象の奥に変化しない実体を求めようとする。ここに大変な無明が在ります。これは・変るものに「変るな」と命令する訳でして、通用しない行業です。この行業が<叶わぬ執著>という事です。

 こうして叶わぬ願望で作り出した――本当は作り出せてない――実体――得たものは音符だけ――にしがみ付く。つまりは縁起法に対する無知――執著――叶わぬ心作業(さごう)・口業・身業、これが苦を引起こす・という事です。このからくりが明らかになれば・解脱への門・は遠くない訳です。

 この門が以信得入の門・ですね。入いれば仏道修行という事になります。それは何も坊さんには限りません。誰でもそれなりに出来る事です。仏法は反省自覚法だ・という事でしたが、反省――自覚・これが修行法ですね。

 諸行無常と言って万事は常無く変るのですから、反省→自覚の修行で・自分や条件を良い方へ変えれば好い。無常を悲観論の方にだけ受取るのは片手落ちです。

 無常だ・という事は、諸行は悪い方へも変るし善い方へも変る事を示しています。万事は変る事が徹底して解ったら、不味い状態から良い状態へ変れば好い。そこで反省→自覚と修行すれば好い訳です。仏道修行とは反省→自覚・反省→自覚という行為を一生涯貫いて行く行業です。不苦不楽中道行です。

 年年より月月・月月より日日・日日より時時・時時より刹那刹那に反省――自覚が繰返される様でしたら・これは密度が濃い事になりますが、そう理想的には参りません。

 そこで普通、各宗各派毎に・勤行の形式とか回数とか坐禅の時間とかを決めて・させている訳ですが、行ずる僧俗の方は兎角そういう規定の方に心を取られて、肝心の<反省――自覚>という元意の方を忘れ勝ちでしょう。

 昔からの持戒中心の修行・坐禅中心の修行・読謂中心の修行等々・どんな仕方の修行にせよ、凡身の凡行を反省して仏身を目指したものである以上、各種の修行を貰いている根元は<反省-自覚>という行業以外には有りません。反省に非ざる持戒・反省に非ざる禅定行・反省に非ざる読誦行……そういうものは無い訳です。受持一行又然りです。

 空だ空だと言って・坐って半眼にして心をからっぼ(空)に落着けても、これでは坐禅にならない訳です。良い声でお経を読んで気分爽快になっても・お経の意味が解っても、これだけでは本当の読誦とは申せません。

 凡愚心を反省し身心を正して「凡夫・大聖の為に法を説く」(『玄義』)で、九界から仏界の為に(自行)法界万霊に対して説法をする(自行即化他)……これが本当の読誦で、ここには真の反省が篭り・自覚が伴っています。

 

 

龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)

 
ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』

ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』