3 インドの伝統――<分けない>流儀 (3)縁起は法の根幹――法は縁起の焦点

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(3)縁起は法の根幹――法は縁起の焦点

 話が段々逸(そ)れて来ました。法という概念を整理する方へ戻りましょう。無常という法そのもの――無常法――は常住不変だ・という事でしたが……。

 <縁起>とは「此れ有るが故に彼れ有り、彼れ無くば此れ無し」という・相依・相待(そうだい)・依り合い・待ち合い・の関係の事ですが、一切の事法・理法・はこの縁起法で成立っており、従って、諸行という一切万法は縁起関係の在り方(組まれ方)次第で常無く変って行くものです。

 変って行かない諸行は在りませんから、諸行は無常法に貫かれており、この無常法は・横には全法界に拡がっていて・縦には不断不常の常住不変に継続して行く訳です。「諸行無常」とはこの事を教えている指摘なのです。

 一切万法は<常住不変なる無常法>に貫かれており、無常法は縁起関係の上に現出する現象だ・という事になりますと、「縁起こそ法の根幹である」という事になります。

 そうです。縁起は法の根幹です。「如来は此の法(縁起法・縁起中道法)を悟りて等正覚を成じ給う」(『雑阿含経』)と在る通りです。「此の法」を一般に仏教学では・縁起法・と解しておりますが、これはまだ正しくはありません。これでは但の世間法の悟りです。仏様の悟りは出世間法としての悟りなのでして、縁起法の奥の縁起中道法の方を悟ったのです

 微妙な違いなので見逃されているのですね。縁起法は但の世間法だ・という事は、推理だけで得らわて・反省を必要としていない・という事ですね。反省→自覚が出世間の悟り・ですから、縁起中道法でないと「成等正覚」ではない・という事ですね。

 そうです。この縁起法や無常法は「法は如来の作に非ず、また余人の作にも非ず」(『華厳経』)と断わっている通り<自然法(じねんぼう)>なのです。この<じねんぼう>は現代の法哲学で言う<自然法>(しぜんほう)>とは全く違うものです。本有無作の無為法なのです。

 法哲学での自然法は、立法による実定法の理念的法源で、実定法批判の基準・という事です。社会や人間の本性に基づく・規範になるものです。法制の拠所です。元は昔のギリシャで哲学者が考えた事で、真の法は普遍永久性を持つものである筈で、自然と調和した正しい理性がこれである・という事でした。

 ところで、仏様は縁起中道法を悟って正覚を成じたのであれば、仏様の教法は当然この縁起法・縁起中道法・を説く訳ですね。

 そうです。釈尊を始め三世諸仏の教法は、一切、この縁起の法・縁起中道法・を浅きより深きに至って説いて、遂には仏種(成仏の種子)である聞法下種の法体に迄説き到るものです。言う迄も無く、この聞法下種の法体も又・縁起法である事に変りは有りません。縁起しない妙法・というのは有得ない事です。

 そうすると、縁起は法の根幹であり、仏法の根幹である訳ですね。

 そうです。仏様の教えというものは、人為で作り出した教えを実践する・という事ではないのです。自然法(じねんぼう)という自然法爾(じねんほうに)の法をその有りの儘(如実)に知り、その知った通りに生きる・という事ですから、仏法は当然、法(自然法)を第一原理にしている訳です。

 これが仏様の教法の骨格ですから、この教法は人間の当為(ゾルレン=人として当然為すべき行為)・認識・自覚・これに基づいた実践方法(諸方便)つまりは修行法・等々一切を分けずに含んでいる訳です。インドの・分けない流義・はこの点で尤もなのです。

 とにかく教法と言えば、その中に一切合財が含まれてしまう……一法は開いて万法となり・万法を閉じて合すれば但一法となる・という事ですね。本とページみたいです。

 この諸法一切を含む教法の中から、煩悩に負けない善法とか修行法などという面を差置いて、境智二法(境法=外法・と智法=内法)だけを取出して見た時に、仏法以外では絶対に見られない大事な点が出て参ります。

 「一切法とは、識(内法・智法)所縁の法(外法・境法)は是れ一切法なり、智(内法・智法)所縁の法(外法・境法)は是れ一切法なり」(『大智度論』)と言われる場合の<法>の理解が実に大切になって参ります。

 第一原理の話の中心として、<法>の話になって来ましたが、境智のどちらに就いても<所縁>の<法>という点が肝心な訳ですね。識智に縁(よ)らぬ境法は無い……。

 この場合、<法>とは<衆縁の焦点>という事になります。一般に自然科学は物を相手にし、哲学は思惟・人生・出来事・事件(アフェアー)を相手にしていますが、仏法ではそういう事物・事象は全て「法とは衆縁の焦点なり」と捉えているのです。

 衆縁の焦点とは<色々な諸縁が集まって機能している焦点>――これは変化しながら継続する――という事でして、一切事象(法)は有形無形の諸縁が集合交叉し相依った<成立ち>(佇まい)である・と見ているのです。これを「衆縁所生の法」(この所生は所現の意)と言います。ですから法に<個在>は有得ません。

 本当は法に個物・個在・独存・は有得ない・となれば、ギリシャ哲学の考え方とは全く逆になってしまいます。実体や本質は有得ない事にならざるを得なくなります。

 そうです。どんな個物でも地球や宇宙の外(そと)に独存している訳ではありませんから、諸物・地球・宇宙に<依存>している訳です。お互いさま・です。この<依存>が<縁起>という事です。例えば<東京駅>と言ってみても、そういう個物が昔から不変存在として在った・という見方は虚妄だ・と排除するのです。

 新幹線・東海道線・総武地下新線・横須賀線・湘南線・山手線、果ては列車・駅員・乗客、建物・売店・食堂・道具類、ガス・水道・電気諸系統・運行ダイヤグラム・予算・等々の諸線・諸機能の諸縁が相寄り集まった焦点として、東京駅という事象がそこに成立ち佇み機能している・という様な具合です。

 すると、縁起法でない存在は無く、縁起と衆縁所生法とは・説明の仕方の違いでしかない・事になります。衆緑の焦点・というのもそうですね。衆=集で焦点は集まり……。

 一切法は皆・衆縁の焦点だ・というのが<法>という意味でして、境法(外法)も智法(内法)も一切皆そうなのだ・とします。これが大事なのです。個物・個在・独存は完全に否定されます。実体や本質については後の章で詳しく解析して参りたい・と思います。

 「五蘊仮和合を衆生と為す」などと言うのもそうですね。五蘊のうち色は外法ですが、受想行識という内法が無ければ外法も内法も存立しません。内外二法が相依ってのみ、初めて外法は外法たり得、内法は内法たり得、内外衆合して五蘊が現出し衆生たり得ます。この様に一切の存在は仮和合の成立ちである・と言います。独自存在という見方や個在という考え方は否定されています。

 「縁起の法は我(如来)が作に非ず、また余人の作にも非ず」(『雑阿含経』)と言われる縁起の法・というのがそれなのです。これを竜樹は・衆縁所生法・と説明したのです。衆縁所生法・即空即仮即中・と、反省法として把えているのです。

 釈尊が最初に説かれた仮諦の法、これが縁起の法でして、縁起の法門は小乗阿含部の方便教だ・と蹴飛ばす向きが在りますが、これはとんでもない間違いです。縁起は一切法の根幹です。法は衆縁の焦点だから仮有の侭機能しているのです。厳有・実有の方こそ幻(まぼろし)です。

 阿含での法門は・仏法と六師やバラモンの法とのけじめ・を説いているのですね。

 そうです。竜樹の『十二門論』というのは彼の『中論』の綱格書ですが、その中にこう在ります。

 「衆縁所生の法は是れ即ち自性無し、若し自性無くんば云何が是の法有らん(法は実体存在ではないが、無自性という自性が在るので法が成立している)。衆縁所生の法には二種あり、一には内、二には外、衆縁にも亦二種あり、一には内、二には外、……、是くの如く内外の諸法は皆衆縁従(よ)り生ず、衆縁従り生ずるが故に即ち是れ性(自性)無きに非ずや」

有(実有)や実体や本質を言立てる・有部(アビダルマ)・六師・バラモン・は誤っている。法は縁起生だから実有も実体も本質も在る訳が無い・と言っております。

 つまり、一切法は縁起法だから無実体で空だ・と言っているのでしょう。してみると、縁起という考え方が判らないと空も判らない・という事を示しております。

 縁起の仮諦が判らなければ仏法は一切合財全部判りません。仮諦が判らずに空諦が判る訳は有りません。空諦が判らずに中諦が判る訳は有りません。三諦が判らないと一念三千も只言葉を暗記しただけで終りになってしまいます。一切法は全て縁起法で、法は全て衆縁の焦点です。一切の理解はここから出発しなければなりません。

 結論だけを言ってみると、「一念三千の法を第一原理とせよ」というのが私達の言いたい点ですから、ここでその「法とは衆縁の焦点なり」という事を徹底して理解して置く必要が有る・と思います。

 <法の理解>は実に大切な事です。事法においては縁起法でない法は有得ませんし、縁起した法は全て<衆縁の焦点>です。理法ならば、理法というものは全て事象に依り・その中で機能しているものですから、それだけ取上げて・事象から勝手に外化させる訳には参りません。それでは形式科学の様になってしまいます。

 [2+2=4]は真理に違いなくても、<2>とか<4>とか<2+2=4>とかいう実在は何処にも無い・のと同じ事です。事法と相待し相依し縁起しない理法などは無い訳です。総じて<法の理解>は大事で、相当に困難を伴う・と覚悟しなければなりません。

 

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