3 インドの伝統――<分けない>流儀 (2)真理と法・仏(覚者)――第一原理

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(2)真理と法・仏(覚者)――第一原理

 第一原理論争を振返って思う事ですが、昔からとにかく何等かの<真埋>が第一原理として立てられて来ました。真理性の無い第一原理という事は考えられない訳です。個か普遍か・物か心か・と言っても、それ自体には真理性は無くても、世界に占めている関係上の位置・という<関係性>に真理性を認めている訳です。

 真理と言えばすぐ・現実の法則・という風に繋がって来るのですが、その第一原理は<人間が決める。自然界の運動から自動的必然的に決定される事ではない>という事が明らかになった・と思います。この視座からすると、一体どんな事を第一原理とすべきか・という問題が出て来ます。

 結論だけを言うと、生きて行く人間としては、法と仏(覚者)つまり法仏一如の法とこの法の体現者である仏、これを第一原理にすべきである・という事になります。この一如の人法を分けて徳に約して言うと、法ならば法徳・人(にん。仏を指す)ならば主師親の三徳・これを第一原理とすべきです。

 人法は一体であって、『涅槃経』に「(人法)一体の仏を主師親と作す」と言う通りです。法徳は衆生をして解脱に到らしめる徳用で、この用の体は広くは縁起中道法、縁起法を浅深の次第で突詰めれば・事行の一念三千・という事になります。この体現者であり教主たる自受用無作の報身如来様が主師親です。

 そうなるとすぐ、それは信仰者の立場であっで、学究の立場でも一般人の立場でもない・という反論が出て来ます。特に、主師親などという発想は、『涅槃経』などに在るにせよ、恐ろしく中世的でかび臭い・と軽蔑されてしまいます。

 封建的でかび臭いかどうか。でも、現実に、どんな人でも自分で決めた自分の主師親を持っているのではないですか。

 かび臭い・などと言っている人の主師親を言ってみると、悪魔(第六天の魔王つまり元品の無明)を君主にしてこれに守られ支配されているし、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴・の三煩悩)を親としてこの親に養育され・従っているし、邪見(虚妄分別・ヴィカルパ)を師匠としてこの師に導かれて暮らしているでしょう。自分で決めた主師観です。

 無明・煩悩・邪見、こういう<法>がその人の拠所としている第一原理になっていはしませんか。これがその人の主師親な訳です。万人共通です。自覚していないだけです。

 してみますと、冷静に反省してみれば「三世の諸仏は是の法(妙法)を師として修行覚道し給えり」と言う通り、仏の<法>というものを第一原理にせよ・という事になりますが、仏法で<法>と言う場合には、何でも法で、法という名辞(仮名・記号)が実に多義に使われています。

 次の章からいよいよ仏法の話の中味へ触れて行く訳ですので、預め法という言葉のアウトラインだけはここで掴んで置く必要が有る・と思います。

 <法>の根本は<人法一箇・人法体一>と言う様に、人(仏陀)と法とが一体で仏界を示現し続けている所・仏陀の在りようの所を指す訳です。一人称では人(仏)から離れた法は無い訳です。無分別です。

 然しこればかりは衆生の示現し難く理解し難い事なので、教える側は、これを分別して、つまり種々相の上において・無分別を分別化した形で説き示す訳です。これが根本で色々と法概念が出て参ります。

 前の方のが<体>で、後の方のが<用>ですね。色々な法概念・の方は用の方ですね。今言われた・分別した法・は皆これは用。教える為に分別した人法一体仏の方は体……。

 すると、仏法では何でも<法>で、真理性の有無以前の事柄、つまり現象や施設(規則・定義・公理・公準・など)迄も法の一語で表現していますから、気を付けなければなりません。インドでは古来・外道でも仏法でも<分けない主義>なのです。

 然しその中心となる意味は<法とはどんな物事でもその物事を全体的に抑えて言う言葉・表現>という事で、その抑えた全体は<分別以前のもの・若しくは分別を総括した所>を指しています。

 この法が根幹で、説かれて言説化したものとしては、そこから色々と枝葉的に多義に使用されて来る訳です。基本は<分けない>主義でも、局面では分かれて来ます。命題文の文脈の前後関係から推せば、何を指しているかは判る様になっております。

 仏法から離れて一般の常識から言ってみると、法という語は、規則(ルール)・真理・法則・方法・規範・法律・倫理・という位の範囲で語られますが、いずれも「その内容は変らない、変えられない」という不動性への同意の上に成立っている様です。

 仏法でのダルマ(法)は、そういう常識的な面迄含むだけではなく、その上に・多義である・となりますと、理解する為には、予備知識として、或る程度の整理が必要になります。インドの<分けない>流義への理解も必要になります。

 法(ダルマ)の意味内容(語用)が多義で困る・というのはその通りです。仏法では、教え(化儀・化法)・名辞・概念・判断・真理・型・形式・規則・法則・道・倫理・当為(ゾルレン)・対象・対境・現象・心象・知識・認識・自覚・手段(方法)・修行・心境・等々何でも<法>ですから、前後の文脈によって・何の法を指しているのか・を見極めなければなりません。アマチュアが困るのはこの点に有る訳です。

 一般の学問でも<法>と言う時には「その内容は変らない、変えられない」(陳述性の維持)という同意の上で使いますが、これは仏法でも同じです。ダルマという名辞は 語源のドフリィ(保持の義)から転化した名詞ですから、変らない事が含意されています。

 とにかく仏様の一切の教示は、生死を出離して解脱に到達する為の不滅の規範ですから、こういう教法の性分は永久に変らない訳です。ですからアビダルマでも「自性を保持して変らない」のをダルマ(法)と言います。「法とは軌持なり」「自相を持するが故に名づけて法と為す」と規定されている通りです。

 軌持とは「軌は軌範、持は任持(能く保って自性を捨てない)」でして、諸物の理も諸教も改変しないから軌範になって・一定の解悟を生じさせる事が出来る・という訳です。アビダルマでさえもこうなのです。

 そういう観点で<法は変らない>という事は判りますが、法は不変・法は自相・自性を保持する・と言いながら、その教法の中味へ立入ってみますと、一切法は無常・無自相・無自性・無自体・と教えています。常無しで不変常住とは反対です。無自相・無自性ですから、自相保持・自性任持・とは反対です。逆説ではないか・という事になり兼ねません。自語相違・矛盾の感も有ります。

 その辺は難しい所です。これは要するに一切事象(現象)を一切法と言っている場合でして、認識の対境(対象)の境法も・思考の道程の智法――これは教法ではない――も・取って返せ(境法化)ば全てそう(無常・無自相・無自性・無自体)だ・という事です。この一切法とは諸行無常の諸行と同意の場合です。

 この場合でも、一切法は無常(アニトゥヤ)で・常無しの連続・ですから、無常という法は不変で常住しています。無自相という・相の真相・が自相をなしています。無自性という・不変の性・が自性になっています。無自体で縁起体だ・という・体の実相・が変る事の無い自体をなしています。

 こういう意味で、「自相住持・自性保持・不変」という自然法(じねんぽう。法哲学で言う自然法=しぜんほうの事ではない)や教法の<ダルマの骨格>は変っていません。こういう内容については、本論で徐々に触れて参りましょう。

 

中論―縁起・空・中の思想 (上) (レグルス文庫 (158))

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龍樹 (講談社学術文庫)

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中論―縁起・空・中の思想 (下) (レグルス文庫 (160))
 
中論―縁起・空・中の思想 (中) (レグルス文庫 (159))

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ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』

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