現代諸学と仏法

(2)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その二

(2)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その二 内外法或いは心法が特に<己心の法>として表現された場合に明らかな様に、それは、万人に取っての・ではなくて、当事者一人一人に取っての己心の法です。 そこで、主語世界も詮じ詰めれば己心の法だ・と…

(3)仮(主語)空(反省述語)一如の円融中道

(3)仮(主語)空(反省述語)一如の円融中道 始めに世界を内外に分別する事によって、一切法を外法として主語世界が立てられます。ところがその主語の仮を・即是空なり・と内法に攝する述語世界が展開する事によって、外法も所詮は己心の法に収まり、一切…

(4)主語・述語と五蘊説

(4)主語・述語と五蘊説 ここで主語と述語との対応としての五蘊説について考えてみると、元来釈尊の真意としては、アビダルマの様に「色は外法で受想行識は内法だ」と断定したのではなく、もっと広い心地から、内外が相い応じ合った相応法・内外相応法とし…

(5)主述分離への終局的な問い

(5)主述分離への終局的な問い 五蘊説は、客観上の合理的な世界認識ではありません。単なる一つの現量知でもありません。内観上の自分の世界です。 その現量知を生み出す<からくり>が五蘊という縦型縁起構造の内外相応法です。外物の現量知を生み出す場…

三諦論と判断論 (1)論理学は進歩する――思惟を反省する学問

三諦論と判断論 (1)論理学は進歩する――思惟を反省する学問 論理学は思惟を反省する学問で、数学と共に形式科学を形成しております。この学は具体的思想を展開するものではなくて、現実知識の・内容や実質・には一切関わりません。その替りに・具体的知識…

(2)繋辞、存在判断・叙述判断、概念

(2)繋辞、存在判断・叙述判断、概念 論理学では「ある・ない」を<繋辞>(コプラ)と言っています。コプラは<主語と述語との間の関係・を言い表わす言語表現>です。述語に付かないコプラは何の働きも無く、述部に位置せず述語に付かないコプラは在りま…

(3)判断は理智作用ではない――判断は意志の行為

(3)判断は理智作用ではない――判断は意志の行為 論理学も仏法も「がある」という存在判断から出発せざるを得ない・という事でしたが、この<判断>という事は、どういう心理作用なのでしょうか。心理作用には智・情・意の三面が有って、元より実体ではない…

(4)空仮中は判断である――概念や・事物の性質・ではない

(4)空仮中は判断である――概念や・事物の性質・ではない 普通、反省という行為は倫理の局面で語られ、論理的な意味合いとしては、一人称命題界における・弁証法の・自己反省による自我の自覚・として語られます。論理学や哲学の問題としては、それ以外の反…

(5)三諦の空仮中は反省判断の繋辞

(5)三諦の空仮中は反省判断の繋辞 仮や空や中は事物の性質でもなく、言語としては概念を表現した名辞でもない。更に、判断ではあるが、普通に考えられる叙述判断でもなくて、反省判断である・との事でした。空仮中は概念でも性質でも叙述判断でもない・と…

(6)無上智慧による脈絡世界での状況叙述

(6)無上智慧による脈絡世界での状況叙述 空仮中そのものは何処迄も判断である事は判りました。判断には、存在判断としての<がある・がない>と叙述判断としての<である・でない>とが在って、形式科学としての論理学が取扱うのは叙述判断の方だけです。…

(7)中の実体化と無分別体

(7)中の実体化と無分別体 三諦の概念化はすぐその実体化へ繋がりますので、三諦の実体化予防という事について、もう少し話を進めてみたいと思います。 三諦も「名相無きなかに名相を仮りて説い」(『止観』)たものですから、実体である筈は決して無いの…

(8)性は体に内属しない――体その儘が性

(8)性は体に内属しない――体その儘が性 相については「縁起諸支の焦点について、その法の外面に見えている所を相と名付けるのである」と言えば、余り実体化の余地は無い・と言えます。然し<性>の方は実体化される余地が可成り大きい・と思います。性・性…

(9)三諦の概念化と真徳への転換

(9)三諦の概念化と真徳への転換 抑も・相・性・体・は、本来一つのものを三面に分割した話です。それぞれ独立に存在していた三つが寄り集まって一つになった訳ではありません。理解する為に、頭の中だけで三面に分析してみた事にすぎません。こうした相性…

(10)空仮中と有無二道――本覚真徳の実際

(10)空仮中と有無二道――本覚真徳の実際 三諦での空仮中は反省判断であって、決して概念ではない・という所が一番大事であるだけに・ここが盲点になる、と思います。仏典は形式論理学へ注意を払って説いたものではありませんから、読み解(ほど)いて行く…

4 哲学の手本を示す判断論 (1)唯識の沿革と基本

4 哲学の手本を示す判断論 (1)唯識の沿革と基本 意志による判断・という事を追って行くと、意志の主体者である我れの<自我>とか<識の働き>などが登場して来ますので、初めに唯識のポイントを明らかにしてみたい・と思います。 <識>は五蘊の中心で…

(2)著有と五性各別という悪義

(2)著有と五性各別という悪義 著有の点は容易に判ります。然し<五性各別>は元々『解深密経』と同類の『楞伽経』にそう明示されている事です。そこで現代でも、五性各別を悪義扱いにするのは妥当でない・という考え方が在りますし、昔から論争の種で、伝…

(3)八識から出る判断する意志と寂静の九識

(3)八識から出る判断する意志と寂静の九識 識はまず感覚から始まります。眼耳鼻舌身の五根に由る・見る・聞く・匂いを嗅ぐ・味わう・触れる・の五入識、これは動物でも同じ事です。だがその他に、これらを統一して感覚を纏めて行くものは何か・という事に…

(4)無量世に於ける眼根の因縁は――妄念を生む五蘊の心作用

(4)無量世に於ける眼根の因縁は――妄念を生む五蘊の心作用 その予備知識とは・どういう問題についての知識ですか。勿論<識>に関係した事・とは思いますが……。 ええ。<識>にも関係するし、<色>にも<現量>(感覚)にも<分別>にも<五蘊>にも……と…

(5)見る識も見られる色も仮和合

(5)見る識も見られる色も仮和合 抑も主観と客体とが唯混沌としているだけなら、そこには・意志・というものは在り得ないですね。 そうです。意志が意志としてはっきりしているのは第六識で、第八識ではまだカオス状態です。能く智情意・と言いますが、こ…

(6)心はただこれ名のみなリ――無所有不可得

(6)心はただこれ名のみなリ――無所有不可得 仏法では分別虚妄・と言って、世俗での判断は全て虚妄だ・と退けます。一方、論理学には虚偽論・と言って虚偽予防論を展開する分野が在ります。 この虚偽論は・内容としては・アリストテレスの詭弁論駁論その儘…

(7)判断における虚妄と真実

(7)判断における虚妄と真実 肉体の場合もそうです。身体・身体と言い合ってみた所で、お互いのコミニュケイションの上での一つの約束みたいな概念です。確かに・目方を計ってみれば身体はこれ位だ・となります。それから・洋服屋に言わせると、服の生地は…

(8)判断の経験的下部構造

(8)判断の経験的下部構造 人間の生活では<判断の為の判断>というのは在りません。判断は人間機能の一部であって、判断と行動とは裏表になっております。一番最初に判断をしてそれから行動する。行動の中で判断と違った流れが出て来たら、更にもう一回判…

(9)判断の限界と循環問題

(9)判断の限界と循環問題 判断論が判断の真偽・正誤・にのみ関わっているだけでは真の判断論にはなり得ない。この指摘は重要だ・と思います。判断の機能は人生のどの部分迄及び得るものか・という限界もまだ決して明らかにされた・とは言えません。 アリ…

内外相対を確実に理解したいという願いを込めて:「現代諸学と仏法」目次

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htmから引用させていただいております。 ブログ管理者の問題意識 皆さんは五重の相対を御存じだと思います。 1 内外相対(ないげそうたい)2 大小相対 (だいしょうそうたい)3 権実相対 (ごんじつそうたい)4 本…